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SIS日記

NPO法人SIS(シス)スタッフによるリレー形式の日記です。
「こころが動いたこと」や「共有したいささやかな出来事」など
スタッフの「想い」を定期的に更新していきます。
どうぞお楽しみに!

白い羊なんてなりたくない!? 
 
 
  年末になってようやく、欅坂46が『黒い羊』という曲を歌っていることを知った。黒ずくめの衣装と踊り、「白い羊なんて僕は絶対になりたくないんだ そうなった瞬間に僕は僕じゃなくなってしまうよ」というメッセージ……インパクトある歌だ。
 
 作詞者・秋元康は、現代社会において若者を取り巻く気分を、よく捉えている。目に見えない『同調圧力』の存在。そこから外れ、浮き立ってしまう自己の存在。しかし、その自己存在は、歴とした一つの文化存在であるのだ。
 
 年末・年始に何回か流れるであろうこの曲を通して、そのことをじっくり考えてみたい。
 
 以下、歌詞全文を掲載する。
 
『黒い羊』欅坂46
  作詞:秋元康
  作曲:ナスカ
 
信号は青なのかそれとも緑なのかどっちなんだ?
あやふやなものははっきりさせたい
夕暮れ時の商店街の雑踏を通り抜けるのが面倒で
踏切を渡って 遠回りして帰る
放課後の教室は苦手だ
その場にいるだけで分かり合えてるようで
話し合いにならないし
白けてしまった僕は無口になる
言いたいこと言い合って解決しよう
なんて楽天的すぎるよ
誰かが溜め息をついた
そう それが本当の声だろう
黒い羊 そうだ 僕だけがいなくなればいいんだ
そうすれば 止まってた針はまた動き出すんだろう?
全員が納得するそんな答えなんかあるものか!
反対が僕だけならいっそ無視すればいいんだ
みんなから説得される方が居心地悪くなる
目配せしている仲間には僕は厄介者でしかない
真っ白な群れに悪目立ちしてる
自分だけが真っ黒な羊
と言ったって同じ色に染まりたくないんだ
薄暗い部屋の明かりつけるタイミングって一体いつなんだろう?
スマホには愛のない過去だけが残ってる
人間関係の答え合わせなんか僕には出来ないし
そこにいなければよかったと後悔する
人生の大半は思うようにはいかない
納得できないことばかりだし諦めろと諭されてたけど
それならやっぱ納得なんかしないまま
その度に何度も唾を吐いて
噛みついちゃいけませんか?
No No No No
 
全部 僕のせいだ
黒い羊 そうだ 僕だけがいなくなればいいんだ
そうすれば 止まってた針はまた動き出すんだろう?
全員が納得するそんな答えなんかあるものか!
反対が僕だけならいっそ無視すればいいんだ
みんなから説得される方が居心地悪くなる
目配せしてる仲間には僕は厄介者でしかない
わかってるよ
 
La La La…
白い羊なんて僕は絶対になりたくないんだ
そうなった瞬間に僕は僕じゃなくなってしまうよ
まわりと違うそのことで誰かに迷惑かけたか?
髪の毛を染めろと言う大人は何が気に入らない?
反逆の象徴になるとでも思っているのか?
自分の色とは違うそれだけで厄介者か?
 
Oh
自らの真実を捨て白い羊のふりをする者よ
黒い羊を見つけ 指を差して笑うのか?
それなら僕はいつだって
それでも僕はいつだって
ここで悪目立ちしてよう
 
「三日月湖」からの視点  〔哲学快談:発達障碍〕
 
 
 発達障碍の人たちが片付けが苦手だと言われる問題について、一定の角度から考察してきた。このあたりで、ひと区切りしたい。
 
  『片付けられない、捨てられない』ということが問題になったり、話題になったとしたら、ある意味でそれはチャンスでもあると思われる。より深く、多様に、互いの、あるいは自分の特質や流儀を知り、交流していくのに役立つのではないか。
 
 『片付けられない、捨てられない』として、「ゴミ」や「ガラクタ」らしきモノが有るとして、それはその人が「心のなかで使っている」のだと指摘する人(片付けカウンセラー)もいる。
 
 その指摘は、なるほどなと思える。私は、この話は、「ゴミ」でも「ガラクタ」でも、『心のなかの「三日月湖」』のようなものだと連想した。なだらかな湿原を流れる(例えば石狩川の如き)川の周囲にはかつて蛇行して流れた痕跡としての「三日月湖」が残っている。それは、折々の流量と大地との格闘を経て残るべくして残ったものだ。流域の、手つかずの自然の豊かさの象徴であるのだ。
 つまり、「ゴミ」も「ガラクタ」も、対話のなかにあることだと思える。自己対話、相互対話のなかに。だとすれば、「ゴミ」などが共用の空間を「浸食している」とされる問題などは、もっともっとていねいに対話を進められてしかるべきだろう。互いの存在が大事であるのだから。(了)
 
発達障碍への眼差しを考える  〔哲学快談:発達障碍〕
 
 
 「ゴミ」を巡る話、「ガラクタ」を巡る話、そして中勘助『銀の匙』の世界にかかわる話と話題が広がってきたが、そもそもの最初の問題に戻りたい。
 
 発達障碍を有する人たちは、こだわりが強い、片付けができない、社会生活に疎い、そのようなラベリングをされることが多い。
 
 自らの自閉症体験を整理・分析・研究し、著作を出しているドナ・ウィリアムズが、次のようなことを書いていて大いにヒントになる。
「安全ピンとして知られているものは固くて形を変えるのは難しく、弾力性があって短い素材であり、上げることができ、噛めば金属の感触が口に広がり、あるいはそれをたくさんつなげて耳のそばで振れば、繊細で耳をくすぐるようにちりちりと鳴る……」(「自閉症という体験」誠信書房、2009年刊)
 
 普通、安全ピンを噛むなどしない。安全ピンをつなげて、振ったときの音を楽しんだりはしない。なぜなら、安全ピンは、複数の布などを簡易に留める機能を持ったモノであり、用途が無ければ仕舞われているからだ。
 
  ドナ・ウィリアムズは、本来なら安全ピンとして仕舞われているモノを噛んだり、つなげて音を楽しんだりしていた。同様に、本来なら櫛であるモノを歯に当てて音を響かせ、楽しんでいた。
 
 本来ならカーテンであるモノを、本来ならスプーンであるモノを……など、ドナ・ウィリアムズの、モノの機能性を度外視した探索行動はふんだんに行われたようだ。
 
 このドナの行動は、モノの見栄えや手触り、弾力、味や匂い、働きかけた時に生まれる音、つまり五感(視覚・触覚・味覚・臭覚・聴覚)をフルに動員したものであり、ドナはこういうときやむにやまれず、のめり込んでいたと回想している。
 
 五感をフル動員し、身近なモノにのめり込むようにして働きかける時期が長い。そういう特性を発達障碍の人たちは持っているのではないかと私は考えている。これに対して、モノの機能性を了解すると有用時以外は関心を持たなくなってしまうのが定型発達者ではないだろうか。
 
 「身近なモノ」と書いたが、それは家の中の道具ばかりでなく、陽差しも影も、雨も雪も、砂も土も石も、木も虫も鳥も、風もさやぎも、あらゆる自然現象が身近だ。
 
 五感をフル動員し、あらゆるモノや自然に関心を持ち、社会のルールや物事の約束事に目覚めるのがゆっくりめなのが発達障碍者だろうと思える。定型発達者から見て、「またゴミを貯めて!」と思えてしまうのは、ここからではないかと思う。
 
 しかし、一歩立ち止まってみれば、「ゴミ」とされるモノに、その人なりの五感をフル動員したが故の「出会い」の痕跡が残っていることが多いのだ。それを忘れると、私たちの社会は窮屈さを加速させてしまうと思う。