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SIS日記

NPO法人SIS(シス)スタッフによるリレー形式の日記です。
「こころが動いたこと」や「共有したいささやかな出来事」など
スタッフの「想い」を定期的に更新していきます。
どうぞお楽しみに!

「抱く」をめぐって ⑤ たちまちに涙
                     〔歌のさんぽみち〕
 
 
たちまちに涙あふれて夜の市の玩具売場を脱れ来にけり
                       (木俣 修)
 
 子が先に逝くということは、耐えられない。木俣修は、長男を病でなくした。あるとき、夜の市に行くと玩具売場があった。たちまちに涙が溢れて堪らず脱れて来てしまった。売場に並べられている玩具を見て、亡き子を思いだしてしまう。まるで昨日のよう。いや、つい先ほどのことのよう。目に浮かぶ生々しいその様と、もう子はこの世にいない現実とがめくるめく襲ってくる。「たちまちに」という冒頭の言葉が、どうにもできない現実を衝いていて痛々しい。
 
  街をきて不意に線香の匂ひ痛しここより幻の亡子と並びゆく
                       (磯部国子)
 
 木俣修も、夜の市がある街に来た。磯部国子も、あるとき街に来た。街に来るのも日常だ。不意に線香の匂いがした。磯部国子は、その匂いを「痛し」と感じた。子を亡くして位牌の前で無言の対話を重ねて来ただろう。同輩や連れ合いなどの成人との対話とは、自ずから異なるものがあるだろう。
 
  そのとき、磯部国子は「ここより幻の亡子と並びゆく」とした。一つの決意のように思える。「連れてゆく」でも「追いてゆく」でもなく、「並びゆく」とした。子の生は短かったかも知れないが、ここより並んで歩いて行こうと思えただろう。
 
  「抱く」をめぐっての歌のなかに、子を亡くした歌を入れたのはほかでもない。河野裕子が次のように詠った「抱く」が普遍だと思えるからだ。
 
 子がわれかわれが子なのかわからぬまで子を抱き湯に入り子を抱き眠る
                       (河野裕子)
 
  子が我か我が子なのかわからないまで子を「抱く」という没入感が、母であれ父であれ、あるのだろうと思う。先に子が逝ってしまうという事態は、その没入の底面が一挙に抜けてしまうことだろう。いたたまれない。けれども、その没入の感覚が存在したことも事実なのだ。
「抱く」をめぐって ④ 偶然の如く 
                    〔歌のさんぽみち〕
 
 
遊ぶ子の群かけぬけてわれに来るこの偶然のような一人を抱けり
                       (川野里子)
 
 子ども等が群れになって遊んでいる。歓声が聞こえてくる。公園の遊具か砂場の辺りからか。作者は、その公園のベンチかどこかで子を見守っている。ふと、子が遊びの群れから脱けて駆けて来る。息弾ませて。作者は母親だ。子をしっかと胸にかき抱く。
 
 「この偶然のような一人」という言葉が挿し込まれていて、歌の世界が俄然として深みを帯びている。「偶然のような」という視点は、どこからもたらされたのだろうか。母と子だから「われに来る」という視点をはじめから自明としていない。むしろ、命の連鎖のなかでの命の預かりをしているかの如き、彼方からの視点が窺える。
 
 けれども、たかだか数年でも「母と子」は重ねられて来ている。最初は、授乳し、襁褓を替え、寝かしつけた。やがて、這い、歩き、見守ってきた。いまや、ひとり立ちして遊びの群れのなかに紛れている。そして、群れのなかから真っ直ぐに「われに来る」。「母と子」の重ねを存分に経て、子は群れのなかで遊び、またふと母の元に「来る」。
 
 「子どもは誰かと一緒のときに一人になれる」(芹沢俊介『「する」から「ある」へ~養育論の試み』真宗保育ブックレットより)という養育論の根幹にかかわる言葉を想起してみる。子どもは、心のなかに安心と安定がなければ一人になれない。群れ遊びにも浸れない。心のなかの安定と安心は、心のなかに誰かがいることだ。誰かとは、母のことだ。
 
 かくして、母を目がけて来る子は、生物学的に自明な母でなく「母と子を重ねて」子を受けとめる母を目がけて来る。そして、いっとき母に抱かれて、また群れ遊びに戻る。やがて、「いっとき」は成長につれて間遠になるが、それは確固とした「一人」になっていくからだ。「誰か」が、子の内面で確固とした存在になっていくからだ。
 
 子は抱かれみな子は抱かれ子は抱かれ人の子は抱かれて生くるもの
                       (河野愛子)
 
  川野里子の歌と河野愛子の歌は私が任意に並べただけだが、「抱く」ことの普遍性を詠っている。人の子は抱かれて生きるものだ。「偶然のような」結びつきのなかで、母は「母になる」、そして子は自らの「ある」を生きていく。   (つづく)
 
 
「抱く」をめぐって ③ 眼差しに抱く
                    〔歌のさんぽみち〕
 
 
 抱くこともうなくなりし少女(おとめ)子(ご)を日にいくたびか眼差しに抱く
                       (小島ゆかり)
 
 小島ゆかりが詠っている「眼差しに抱く」とは、どういうことだろうか。ずいぶん子が成長して、もはや「抱く」ことなどなくなってきた。けれども、「日にいくたびか眼差しに抱く」というのだ。
 
 実は、この「眼差しに抱く」も「抱く」ということにおいて普遍ではないだろうか。介護において介助場面で年寄りや病人を「抱く」、それは物理的移動のために余儀なく行う。嬰児に授乳するために「抱く」、それも「食」を与える点では同様だ。しかし、「抱く」は物理的必要や「食」のためだけでない。「触れる」こと自体に生むものがある。むしろ、そのために「抱く」とさえ言える。「触れる」は、相手にとっては「触れられる」であり、双方にとっては「触れ合う」となる。
 
 小島ゆかりは、物理的に見える「抱く」行為から「眼差しに抱く」を抽出し、「抱く」ということの普遍性を可視化した。「抱く」は慈しみであり、子が大きくなっても眼差しのなかで触れ合い、慈しんでいるのだ。
 
 火も人も時間を抱くとわれはおもう消ゆるまで抱く切なきものを
                       (佐々木幸綱)
 
 子が大きくなっても、ばかりでない。佐々木幸綱は、火も人も消え入るまで時間を抱くのだという。火と人を取り合わせたところに妙がある。たしかに目の前の炎が消えていく様には切ないものがある。人も、いのち消えるまで抱くということ。切なき。
                                                    (つづく)