「抱く」をめぐって ③ 眼差しに抱く
〔歌のさんぽみち〕
〔歌のさんぽみち〕
抱くこともうなくなりし少女(おとめ)子(ご)を日にいくたびか眼差しに抱く
(小島ゆかり)
(小島ゆかり)
小島ゆかりが詠っている「眼差しに抱く」とは、どういうことだろうか。ずいぶん子が成長して、もはや「抱く」ことなどなくなってきた。けれども、「日にいくたびか眼差しに抱く」というのだ。
実は、この「眼差しに抱く」も「抱く」ということにおいて普遍ではないだろうか。介護において介助場面で年寄りや病人を「抱く」、それは物理的移動のために余儀なく行う。嬰児に授乳するために「抱く」、それも「食」を与える点では同様だ。しかし、「抱く」は物理的必要や「食」のためだけでない。「触れる」こと自体に生むものがある。むしろ、そのために「抱く」とさえ言える。「触れる」は、相手にとっては「触れられる」であり、双方にとっては「触れ合う」となる。
小島ゆかりは、物理的に見える「抱く」行為から「眼差しに抱く」を抽出し、「抱く」ということの普遍性を可視化した。「抱く」は慈しみであり、子が大きくなっても眼差しのなかで触れ合い、慈しんでいるのだ。
火も人も時間を抱くとわれはおもう消ゆるまで抱く切なきものを
(佐々木幸綱)
(佐々木幸綱)
子が大きくなっても、ばかりでない。佐々木幸綱は、火も人も消え入るまで時間を抱くのだという。火と人を取り合わせたところに妙がある。たしかに目の前の炎が消えていく様には切ないものがある。人も、いのち消えるまで抱くということ。切なき。
(つづく)
(つづく)
