「食べたい」と調理・料理との間

この一年ほどのコロナ禍における暮らしのなかで、焚き火調理をずいぶんとした。元々そういう志向性があった(好きだった)からだが、ほとんど外食をしなくなったこともある。
庭先の一角にレンガをいくつか積んで、ブリキの煙突を立てて、赤土で塗り固めて竈を造った。栗畑で出た、不要な枯れ枝を使う。頃合いの10数本ほどで、けっこうな火力になる。
昨日は、バジルと塩コショウをまぶした鶏肉の炙り焼き。アルミホイルを敷いて、鶏肉とモヤシ、それからあぜ道に自生するナバナをつまんで乗せる。セリがあれば言うことないが、まだ少し早いか。
すぐにジリジリ、鶏肉が焼けてくる。少ししてモヤシ、ナバナと鶏肉とをひっくり返す。肉から出る汁が野菜にしみ込むはずだ。うんうん、そうなってきた。匂いも色もいい案配になってきた。
晩ご飯は十穀米と、その焚き火鶏肉料理と、冷凍しておいたカボチャの煮物とだ。よしよし、鶏肉はしっかり中まで火が通っていて柔らかいし、ナバナはほろ苦さが充満している。モヤシがちょっとぐったりして、焦げ目がついているのが反省点か。
鶏肉を焚き火で調理し、焼き加減を見て、それから口に入れて味わうと、一連のことが自分のなかで一致する。だいたい思っている通りだ。IH器具調理、ガス調理と比べて、肉の身がほっくらしている。
さて、こんなちょっとした焚き火調理の話と、新型コロナ禍の問題とをリンクさせたい。リンクというか、ワープになるかも……。
あらゆる食べ物が、途中経過をすっ飛ばして口に入るようなことが急速に進んできた。「食べたい」と「食べ物」とを一直線に繋ぐ貨幣経済の進展だ。その高度な進展は、今や「食べてみたい」という気をそそるようにあの手この手を使って多彩・多様になっている。いや、なりすぎて過剰なくらいで、そこに「食品ロス」の穴がぽっかり開く。
※日本では、まだ食べられるのに廃棄される食品、いわゆる「食品ロス」は612万トンだという。

「食」にかかわる欲望開発システムがグローバル化し、アジアの奥地か南米の奥地かは解らないが、新型コロナ・ウィルスを連れてきてしまったのではないだろうか。それで、運良く終息して「アフター・コロナ」となった時、『元に戻る』でいいのだろうか。
コロナ禍における「巣ごもり」体験報告の中から、「今まで出来なかった○○を観た・聞いた・紐解いた……」「あらためて△△を試みた……」「眠っていた□□を引きずり出してみた……」などさまざまな試行錯誤がされていると聞く。高度な貨幣経済の中で、欲望開発対象になっていた自らを、あらためて自分から出発する自分に戻す機会ではないだろうか。
些細な話だけれども、自分が思い立ち、それなりに準備し、目で見て、匂いを嗅いで、見届けて、自分と周りで相伴して、「おいしかったぁ~」と言えるような、発起から終わりまでが自分の気持ちと一致するような事を大事にしたい。いま、そう思っている。
投稿者・鮮 ※ブログ「ら・鮮・快・談」とリンクしています。