武将と姫の墓 | 山中鹿介の墓-3 - 毛利家が山中鹿介を称えて墓を建立! | 地図付き | 武るるん♪ 武将と城の旅。時々観光とグルメ(地図付き)

「武るる 日本全国の武将と城の旅。ときどき観光とグルメ」武将と姫の墓めぐり、
攻防戦を繰り広げた末吉そばにある山中鹿介の墓その3の紹介です。
 

人物名 墓のある施設 住所
山中鹿介 末吉の交差点 鳥取県西伯郡大山町末吉

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山中鹿介の墓は末吉の交差点にあります。
発見難易度★★★☆☆

くるまr駐車場はありません。


尼子家再興のために生涯をかけるも毛利のだまし討ちにあい命を落とす
山中鹿介(やまなかしかのすけ。鹿之介・鹿之助と記すこともあり)は、尼子家再興のために僧籍にあった尼子勝久を還俗させて主君と仰ぎ、毛利との戦いを繰り広げました。
織田信長の参加に入った後は中国地方を転戦し、羽柴秀吉の毛利征伐が決まると、その先鋒として上月城に入りました。
しかし、信長勢が他勢力との戦いのために一時中国地方から兵を引いたため、上月城は孤立してしまい、尼子勝久は自害して果てました。

鹿介は尼子家再興の志を捨てず、主君とともに自害はせずに降伏という道を選びます。
しかし、毛利輝元の元へ送られる途中、だまし討ちに合い、夢を果たせないまま生涯を閉じます。

毛利が山中鹿介を称え墓を建立
元亀2年(1571年)のまだ尼子勝久も山中鹿介も存命だった頃、尼子勝久は新山城に、山中鹿介は末吉城に籠り、毛利方と攻防を繰り広げていました。
末吉城は後に落城しますが、その際の鹿介の活躍を毛利方は褒め称え、鹿介の死後に末吉城近くに供養塔が建立されました。
供養塔の近くにあったとされる末吉城ですが、現在その場所は不明です。

 

山中鹿介の墓全景。

 

 

山中鹿介の墓。高さは2m手前ぐらいでしょうか。

 

 

左手から。

 

 

右手から。

 

 

後ろから。



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