武将と姫の墓 | 福島正則荼毘の地 - 諏訪の野にひっそりと残る謎多き墓! | 地図付き | 武るるん♪ 武将と城の旅。時々観光とグルメ(地図付き)

「武るる 日本全国の武将と城の旅。ときどき観光とグルメ」武将と姫の墓めぐり、福島正則荼毘の地の紹介です。

 

人物名 墓のある施設 住所
福島正則 田園の中 長野県上高井郡高山村高井

 

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福島正則荼毘の地は田園の中にあります。
発見難易度★★★☆☆

くるまr駐車場はありませんが停めるスペースはあります。


賤ヶ岳の戦いで頭角を現す
福島正則は、豊臣秀吉の母方の親戚で、その縁から秀吉に小姓として仕えます。
天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いにおいて一番槍の功を立て、異例の5,000石を与えられました。
以降、秀吉の栄進とともに出世し、尾張清洲24万石の大名となっています。

広島→川中島へ大幅減で転封
秀吉の死後、関ケ原の戦いで功を上げ、加増の上、広島へと転封となります。
広島城を居とし、その石高は49万8,000石にも上りました。

元和5年(1619年)、台風による被害のため崩れた石垣等を修復した所、武家諸法度違反に問われ、それがもとで、広島から信濃川中島へと転封となってしまいました( 飛び地として越後魚沼も与えれれ石高は計4万5,000石)。
これは徳川家康が死んだ後、二代将軍徳川秀忠の代になってのことでした。
家康が生きていたら違った処分だったような気がしますね。

正則は移封後、子・忠勝に家督を譲り、隠居しますが、その忠勝も翌年に早世しています。

荼毘の地に植えられた一本の杉
正則は忠勝の死から4年後の寛永元年(1624年)に生涯を閉じました。
正則の遺骸は家老・津田四郎兵衛によってこの地で荼毘に付され、領民により一本の杉が植えられました。
以降、一本杉は巨木へと成長していきますが、伝承によると、木の枝を折ったり切ったりすると血が噴き出したのだそうです。
一本杉は周囲9メートル、高さ30メートルにまで成長しましたが、昭和9年(1934年)の台風により惜しくも倒木してしまいました。
現在は、2代目の一本杉が植えられ、すくすくと育っています。
いづれ巨木になるでしょうかね。

福島正則の墓はこちら。

 

 

福島正則荼毘の地の全景。

 

 

荼毘の地に建つ供養塔。

 

 

在りし日の一本杉。現地案内板より。

 

 

こちらは2代目の一本杉。

 


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