武将と姫の墓 | 結城秀康の墓 - 大安禅寺 千畳敷! 天下を継げなかった非運の将! | 地図付 | 武るるん♪ 武将と城の旅。時々観光とグルメ(地図付き)

「武るる 日本全国の武将と城の旅。ときどき観光とグルメ」武将と姫の墓めぐり、結城秀康の墓の紹介です。

 

人物名 墓のある施設 住所
結城秀康 大安禅寺 千畳敷 福井県福井市田ノ谷町

 

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結城秀康の墓は大安禅寺 千畳敷にあります。
発見難易度★★☆☆☆

くるまr有料駐車場があります。


天下を継げなかった非運の将・結城秀康
結城秀康(ゆうきひでやす)は徳川家康の次男です。
幼名は幼名は於義丸(おぎまる)。
母は家康の正室・築山殿の侍女・於万の方です。
秀康は、築山殿への配慮から、浜松城内ではなく家臣の家で産まれています。
しかも三歳になるまで、家康への目通りも許されませんでした。

天正7年(1579年)、家康の嫡男・信康が織田信長の命により自刃させられます。
それにより、本来ならば、次男である秀康が家督相続の第一候補となるはずでした。

天正12年(1584年)、家康は羽柴秀吉と対立し小牧・長久手の戦いが起こります。
両者は後に和睦しますが、秀康は秀吉のもとへと人質に出されます。
秀吉は秀康を養子とし羽柴姓を与えますが、それにより徳川家の継承権は異母弟の秀忠へと移ってしまいました。

その後、秀康は結城家の養子となり、秀吉一族としての栄光も失ってしまいました。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは上杉景勝の抑えとして宇都宮に留まり、大戦には参戦しませんでした。
関ヶ原の後、越前北ノ庄へと転封となり68万石を領します。
しかし、34歳の若さで亡くなってしまいました。

福井藩松平家の菩提寺
大安禅寺は、1,300年ほど前に創建されました。
以降、長く越前の信仰の場として栄えますが、天正2年(1574年)の織田信長の越前攻めの際のに兵火に遭い、灰燼と帰します。

その後、万治元年(1658年)、福井藩4代藩主・松平光通(みつみち)が同地に大安禅寺を建立し、福井藩松平家の菩提寺としました。

越前・福井松平家歴代を眠る千畳敷
結城秀康をはじめ、越前・福井松平家歴代が眠る墓域は千畳敷と呼ばれています。
千畳敷は、寺を抜け、15分程山道を登った所にあります。

 

 

鐘楼。

 

 

庫裏。

 

 

松平の廟所 千畳敷。

 

 

結城秀康の墓を中心にずらりと並ぶ越前・福井松平家歴代の墓。

 

 

結城秀康の墓。

 

 

高野山にある結城秀康の石廟はこちら。

 

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