武将の墓 | 伊東祐慶の墓 - 五百禩神社!関ケ原の戦いでは父とは反対の東軍に付く! | 地図付 | 武るるん♪ 武将と城の旅。時々観光とグルメ(地図付き)

「武るるん♪ 日本全国の武将と城の旅。ときどき観光とグルメ」武将の墓めぐり、伊東祐慶の墓の紹介です。

 

人物名 墓のある施設 住所
伊東祐慶(すけのり) 五百禩神社 宮崎県日南市楠原

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伊東祐慶の墓は五百禩神社(旧報恩寺)にあります。
発見難易度★★☆☆☆

くるまr駐車場があります。


室町時代より日向を支配した伊東家
伊東家の日向支配は曾我兄弟の仇討ちで知られる工藤祐経の子孫の伊東祐持が建武2年(1335年)に日向に下向したことに始まります。

関ケ原では父とは反対の東軍につく
伊東祐慶(すけのり)は伊東祐兵(すけたけ)の子で、飫肥藩2代藩主です。
慶長5年(1600年)、関ケ原の戦いが起こますが、父・祐兵は西軍の本拠地・大阪で病床に伏せっていたため、止む無く西軍に属してしまいます。
祐慶は領国日向で兵を起こし、黒田孝高と連絡を取り、父とは反対の東軍に属して西軍の宮崎城を落としました。
この功により、戦後伊東家の所領は安堵されます。
同年、父・祐兵が世を去ったため、飫肥藩2代目藩主となりました。

五百禩神社
五百禩神社(いおしじんじゃ)は伊東家歴代藩主を祀る神社です。
伊東家の菩提寺・報恩寺が明治5年(1872年)の廃仏毀釈により廃寺となったため、その跡地に同神社が建立されました。
本殿は明治9年(1876年)建立です。

 

 

庭園。伊東家の菩提寺・報恩寺の名残です。

 

 

五百禩神社社殿。

 

 

墓へ。

 

 

入り口には仁王様がいらっしゃいました。

 

 

灯篭。

 

 

殉死者の墓。

 

 

歴代藩主の墓。左から祐福、祐永、祐久、祐兵、祐慶、祐由、祐隆。

 

 

伊東祐慶の墓(中央)。

 

 

細工が細かいです。

 

 

龍の彫刻。

 

 


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