武将の墓 | 伊東祐兵の墓 - 五百禩神社!流浪の末に大名に返り咲いた男! | 地図付き | 武るるん♪ 武将と城の旅。時々観光とグルメ(地図付き)

「武るるん♪ 日本全国の武将と城の旅。ときどき観光とグルメ」武将の墓めぐり、伊東祐兵の墓の紹介です。

 

人物名 墓のある施設 住所
伊東祐兵(すけたけ) 五百禩神社 宮崎県日南市楠原

誤字やリンク切れ等がございましたら、コメントにてお知らせくださいますよう、よろしくお願いいたしますm(_ _ )m
スマホで地図が表示されない場合、一度前の記事に戻ってもらい再度次の記事を読み込みすると表示されるようです。

伊東祐兵の墓は五百禩神社(旧報恩寺)にあります。
発見難易度★★☆☆☆

くるまr駐車場があります。


室町時代より日向を支配した伊東家
伊東家の日向支配は曾我兄弟の仇討ちで知られる工藤祐経の子孫の伊東祐持が建武2年(1335年)に日向に下向したことに始まります。

流浪の末に旧領飫肥の藩主へ
伊東祐兵(すけたけ)は伊東義祐(よしすけ)の三男で、飫肥藩初代藩主です。
永禄2年(1559年)生まれ。
飫肥城を居とし島津家と戦いました。
天正5年(1577年)、家臣の寝返りとそれに呼応した島津軍の侵攻が始まると、祐兵は父・義祐とともに城を捨て日向を退去。 縁者の大友宗麟を頼り豊後へと逃れました。
祐兵親子は宗麟に面会し日向攻めを請い、宗麟は二つ返事でそれを快諾。
天正6年(1578年)、大友軍は南下し島津軍と激突します。
旧領回復を望む伊東家家臣団の活躍もあり、島津勢を南へと押しのけていたものの、 耳川の戦いにおいて大友軍は大敗。
日向領回復はなりませんでした。

祐兵親子は豊後を去り、伊予の河野家のもとへ身を寄せます。
その後、羽柴秀吉に仕える縁者を介し、織田信長へと士官。
祐兵は羽柴秀吉の与力に属しました。

信長の死後、山崎の合戦で活躍し、河内5百石を拝領。
天正15年(1587年)、豊臣秀吉の九州征伐ではかつての土地勘を活かして秀吉軍を先導に努めます。
その功により、戦後、日向領のうち2万8千石を与えられて大名へと返り咲きます。
翌16年(1588年)にはかつての居城・飫肥も領土となり、石高は3万6千石に加増。

秀吉が死に、慶長5年(1600年)、関ケ原の戦いへと突入しますが、祐兵は西軍の本拠地・大阪で病床に伏せっていたため、止む無く西軍に属してしまいます。
しかし、嫡男の祐慶が東軍に属したために、戦後所領は安堵されます。
それにより、徳川政権下において初代飫肥藩主となりました。

五百禩神社
五百禩神社(いおしじんじゃ)は伊東家歴代藩主を祀る神社です。
伊東家の菩提寺・報恩寺が明治5年(1872年)の廃仏毀釈により廃寺となったため、その跡地に同神社が建立されました。
本殿は明治9年(1876年)建立です。

 

 

庭園。伊東家の菩提寺・報恩寺の名残です。

 

 

五百禩神社社殿。

 

 

墓へ。

 

 

入り口には仁王様がいらっしゃいました。

 

 

灯篭。

 

 

殉死者の墓。

 

 

歴代藩主の墓。左から祐福、祐永、祐久、祐兵、祐慶、祐由、祐隆。

 

 

伊東祐兵の墓(中央)。

 


武将の墓めぐり TOPページへ戻る
日本全国の武将の墓を紹介しています。

 

アメブロ以外の方のご意見・ご質問等はこちらまで。
※返信までに時間を要する場合、お答えできかねる場合もございます。ご了承ください。

youtubeはじめました。
甲冑を着て日本刀で食材をさばき食べます。
チャンネル登録よろしくお願いします。

ライン宣伝07ラインスタンプ作りました。
喜怒哀楽を兜の前立てで表現した可愛い「武将の日々と日常なサムライスタンプ」
かわいい「たぬきサムライのスタンプ」などなど。
気に入ったら使ってくださいね。よろしくお願いします。
スタンプはこちらから。

ブログランキングへ参加中です。ご協力お願いしますm(_ _ )m
パクリはやめましょう!
このブログの記事や画像の無断使用、転載は絶対やめてくださいね。
ご使用等に関してはこちらまでお願いします。

この記事作るのにいろんな史料を調べたり、現地に行って写真撮ったり、時間・お金がたくさんかかってます!
ズルしちゃだめですよ。

© 2010-2022 siro-sengoku-bushou.