武将と姫の墓 | 浅井長政の自刃の碑 - 小谷城 赤尾屋敷跡!進退窮まり城にて自刃! | 地図付 | 武るるん♪ 武将と城の旅。時々観光とグルメ(地図付き)

「武るる 日本全国の武将と城の旅。ときどき観光とグルメ」武将と姫の墓めぐり、浅井長政の自刃の碑の紹介です。

 

人物名 墓のある施設 住所
浅井長政 小谷城 赤尾屋敷跡 滋賀県長浜市尊勝寺町

 

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浅井長政の自刃の碑は小谷城 赤井屋敷跡にあります。
発見難易度★★☆☆☆
赤井屋敷跡は本丸手前にあります。

くるまr小谷城の駐車場があります。


信長の同盟者からの裏切り、滅亡へ

浅井長政は天文14年(1545年)、浅井久政の嫡男として生まれました。
永禄10年(1567年)、織田信長の妹・お市と浅井長政は婚姻を結び、織田と同盟関係を築きます。
しかしその3年後の永禄13年(1570年)、信長の朝倉義景攻撃に際し、長政は突如反旗を翻し、織田軍の背後から襲い掛かりました。
信長は辛くも逃げきりますが、体勢を立て直すとすぐに反撃を開始。
2か月後、織田・徳川対浅井・朝倉の大規模な合戦が繰り広げられ、浅井・朝倉軍は敗北します(姉川の戦い)。

天正元年(1573年)、信長は3万の軍を率い、浅井領へと攻め込みます。
朝倉義景は援軍に駆け付ける動きを見せますが、逆に信長に自領へと攻め込まれ壊滅していしまいます。
朝倉を滅ぼした織田軍はその勢いのまま浅井領へと攻め込み、長政と父・久政は自刃して果て、浅井家は滅亡しました。

浅井長政、進退窮まり自刃
天正元年(1573年)8月27日、木下秀吉が本丸と小丸の間の京極丸を占拠しました。
これにより長政(本丸)、久政(小丸)親子の兵力は分断され、小丸の久政は自刃。
本丸の長政は嫡男・万福丸、お市の方と娘3人を逃すと本丸から撃ってで、9月1日、赤尾屋敷(曲輪)にて自刃して果てました。

 

小谷城赤尾屋敷跡の自刃の碑。

 

 

浅井長政自刃の碑。

 


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