武将の墓 | 加藤清正の墓 - 天澤寺!遺骨を密かに持ち出し埋葬? | 地図付き | 武るるん♪ 武将と城の旅。時々観光とグルメ(地図付き)

「武るる 日本全国の武将と城の旅。ときどき観光とグルメ」武将の墓めぐり、加藤清正の墓の紹介です。

 

人物名 墓のある施設 住所
加藤清正 天澤寺 山形県鶴岡市丸岡町の内36

 

誤字やリンク切れ等がございましたら、コメントにてお知らせくださいますよう、よろしくお願いいたしますm(_ _ )m
スマホで地図が表示されない場合、一度前の記事に戻ってもらい再度次の記事を読み込みすると表示されるようです。

加藤清正の墓は天澤寺にあります。
丸岡城のすぐ近くです。
発見難易度★★☆☆☆

くるまr駐車場があります。


秀吉の繁栄とともに出世し、秀吉の加藤清正
加藤清正の母は羽柴秀吉の母・大政所と親戚筋だったため、その縁により幼少より秀吉の小姓として仕えています。
天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いにおいて大功を上げ、それにより「賤ヶ岳七本槍」の一人に挙げられ3,000石を与えられます。
天正14年(1586年)、秀吉の九州平定に従軍。
肥後の佐々成政が改易されると、肥後は小西行長と加藤清正に二分され北半国19万5,000石を与えられました。
清正は隈本城に入るとこれに改修を加え、今日ある熊本城を造りました。

秀吉の亡き後の関ケ原の戦いでは東軍につき、九州で西軍と戦っています。
その功により戦後、小西行長の旧領を与えられ、52万石の大名となりました。
晩年は秀吉の子・秀頼徳川家康との和解に尽力し、 慶長16年(1611年)豊臣家の行く末を案じながら世を去りました。

父・清正の遺骨を密かに持ち出し埋葬?

慶長16年(1611年)、加藤清正は世を去ります。
清正の三男・忠廣は兄二人が早世していたため、11歳にして加藤家の家督を継ぎました。
しかし、寛永9年(1632年)、江戸参府の途中、品川で足止めを食ったまま、申し開きの場も与えられずに改易となり、忠廣は庄内藩預かりとなってしまい出羽・丸岡に1代限りの禄1万石が与えられます。

その際に、忠廣は清正の遺骨を密かに掘り起こし、現在地に埋葬したという言い伝えがこの地にはあるそうです。
実際、昭和24年に調査を行ったところ、1600年代に製作された人骨の入った肥前弓焼きの骨壺が出土したのだそうです。
また、清正を祀った清正閣の地下2mから清正着用と思われる鎧が見つかったそうです。
 

 

天澤寺。この反射、なんか荘厳な感じですね。

 

 

天澤寺本堂。

 

 

加藤清正墓へ。

 

 

案内板。

 

 

覆堂。加藤清正の墓はこの中にあります。

 

 

加藤清正の墓。

 

 

別角度から。

 

 

加藤清正の骨壺出土地。

 

 

清正閣。この下2mから鎧が出土しました。

 

 

本妙寺の加藤清正の霊廟はこちら。

 

加藤清正の銅像-1銅像-2はこちら。

 

武将の墓めぐり TOPページへ戻る
日本全国の武将の墓を紹介しています。

 

アメブロ以外の方のご意見・ご質問等はこちらまで。
※返信までに時間を要する場合、お答えできかねる場合もございます。ご了承ください。

youtubeはじめました。
甲冑を着て日本刀で食材をさばき食べます。
チャンネル登録よろしくお願いします。

ライン宣伝07ラインスタンプ作りました。
喜怒哀楽を兜の前立てで表現した可愛い「武将の日々と日常なサムライスタンプ」
かわいい「たぬきサムライのスタンプ」などなど。
気に入ったら使ってくださいね。よろしくお願いします。
スタンプはこちらから。

ブログランキングへ参加中です。ご協力お願いしますm(_ _ )m
パクリはやめましょう!
このブログの記事や画像の無断使用、転載は絶対やめてくださいね。
ご使用等に関してはこちらまでお願いします。

この記事作るのにいろんな史料を調べたり、現地に行って写真撮ったり、時間・お金がたくさんかかってます!
ズルしちゃだめですよ。

© 2010-2022 siro-sengoku-bushou.