「武るる 日本全国の武将と城の旅。ときどき観光とグルメ」武将の墓めぐり、
柳生宗矩の墓の紹介です。
武田勝頼vs織田信長、「信長怒涛の甲州征伐~勝頼滅びへの道~天目山の戦い」 史跡めぐりの旅
は少しお休みです。
人物名 | 墓のある施設 | 住所 |
---|---|---|
柳生宗矩 | 芳徳寺 | 奈良県奈良市柳生下町445 |
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柳生宗矩の墓は芳徳寺にあります。
拝観:大人200円
発見難易度★☆☆☆☆
有料の観光駐車場があります。そこから徒歩。
拝観:大人200円
発見難易度★☆☆☆☆
![くるまr](https://emoji.ameba.jp/img/user/na/namida-egao/88449.gif)
剣豪から大名にまで出世した柳生宗矩
柳生宗矩(やぎゅうむねのり)は柳生石舟斉(やぎゅうせきしゅうさい)の子です。
文禄3年(1594年)、柳生石舟斉は徳川家康に乞われ家康相手に秘技・無刀取りを披露します。
その技に感心した家康は石舟斎に徳川家への仕官を促しますが、石舟斎は固辞。
代わりに子の宗矩を剣術指南役として奉公させました。
慶長6年(1601年)、宗矩は後の二代将軍・徳川秀忠の剣術指南役となり3000石の旗本となります。
元和7年(1621年)には後の三代将軍徳川家光の剣術指南役となります。
以降、家光の信任は厚く、大目付にも任ぜられています。
寛永13年(1636年)の加増により、石高は一万石を超え、大名に列し、柳生藩初代当主となりました。
剣豪から大名まで出世したのは後にも先にも柳生宗矩ただ一人です。
柳生家の菩提寺・芳徳寺。この寺の裏手に墓所はあります。
柳生宗矩像。
墓所への入口。雰囲気あります。さ、殺気
![あせる](https://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/029.gif)
ずらりと並ぶ剣豪たちの墓。中央の奥まったお墓が柳生宗矩の墓です。
柳生宗矩の墓。
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