マンデラ界隈には、個人マンデラとかいうのがあるらしいですよね。

正直、私としては、もうそのネーミング?に引きます。

それで、個人マンデラについて考えたことを書いておきます。

 

引き寄せ界隈の不思議4

引き寄せ界隈の不思議5

引き寄せ界隈の不思議6からの続きの記事です。

 

wikiにあるマンデラ効果の説明には、

”事実と異なる記憶を不特定多数の人が共有している現象を指す

インターネットスラング、

およびその原因を超常現象や陰謀論として解釈する都市伝説の総称である”

とありますが、

私自身も、不特定多数の人が共有する情報という認識なので、

これを個人的な現象を指す言葉として”マンデラ”を使用すること自体が、

理解出来ません。

 

マンデラと呼ばれる現象では、

自分と同じ記憶がある人と、ない人が存在するという形で、
日常生活の中でいくつか確認をしています。

個人マンデラと括ってしまうと、

その人本人にしか確認がしようもないことになってしまって、

どうとでも言える、好きに言えるものになりますよね。

別の表現はなかったのかな?とか、あえて使うことで、

頭のおかしい人、 記憶違いなのか勘違いなのか思い込みであることを、

逆に強調させている様にも思います。

(悪意のある人の誘導的な)

 

引き寄せ界隈の不思議6という記事で書いた、

平行次元の移行的な現象を指している場合もあるのかな?とは思います。

 

ただ、個人マンデラについて調べると、

それがあると主張する人(全てではないのですが)には、

特徴がある様な印象を受けました。

 

例えば、ここでは便宜上、個人マンデラという表現を使って、

説明しますが、

ある人が個人マンデラを経験するとします。

この現象を世界線の移動と解釈する人と、

そうではないとする人がいます。

そうではないとする場合は、情報領域(アカシックレコード)の、

変更とします。

 

もし私が、個人マンデラが頻繁に起きるのだと、

自覚しているのなら、

それによって、日常生活に支障が起きないような工夫をします。

次の瞬間には、マンデラが起きているかもしれないですよね。

違う世界線にいるのかもしれないし、

情報が変更されてしまうかもしれない。

だったら、どうしたらよいのか?

 

まず、思い付くのは、周囲の人に迷惑を掛けるような約束は、

一切しないと決めます。

それから、個人マンデラが起きると、周囲の人に説明しても、

きっと伝わらないので、

私は忘れっぽくて、約束を守ることが出来なくて、

いい加減なところがあると、伝えておきます。

だから信じないで欲しいと。

 

自分の真実は他人にとってはそうではない、

ということは沢山あります。

もし自分でそれを真実だと分かっているのなら、

他人が信じてくれなくても、困りません。

他人を説得する為のものではないからです。

疑いようもなく、そうでしかないから、真実なのです。

だから、自分では個人マンデラなのよ!と思ってたとしても、

それを周囲の人が信じなくても、気にしません。

理解されなくても、いい加減な人だなと思われてもいいのです。

 

それから、確認出来ることは他人と共有する様にします。

大事な予定とか、子どもの行事なんかで、
忘れてはいけない部分は、子どもや学校や、
その他同じ情報を持っている(他の保護者など)に、
確認を取ります。
 
例えば、学校行事のプリントを読んで、
しばらくしたら内容が変わってしまうという個人マンデラが、
頻繁に起きるとします。
マンデラ案件は画像に残しても”画像毎変更される”可能性がありますから、
他の人と情報を共有して、毎回、確認します。
そうすれば、個人的なマンデラが起きているのか、
他の人と共有できるマンデラが起きているのか、
自分の勘違いなのかが分かると思います。
(つまり検証確認を常にするということです)
 
行事の日程だけマンデラが起きたとします。
情報を共有した人と、再度確認した時、
何が起きるのか?
その人も、確かに日程が変わっていると言うのか?
自分だけが変わってしまって、
情報を共有した人は変わっていないと言うのか?
それを何度も何度も毎回繰り返して検証します。
 
情報を共有した人と自分も日程が変わっているといった場合、
これが度々なら、マンデラか、一緒に平行次元に移動している、
または一緒に世界線を移動していると言えるでしょう。
そうしたら、どの人と同じ現象が起きるのか、
起きない人はいるのか?を検証します。
 
ちなみに、私の場合、マンデラ現象を経験するのは、
私と娘と息子で主人は経験しません。
この時点で共有していると感じるので、
これはマンデラだわと認識しています。
 
 
自分だけが変わっている場合はどうでしょうか?
例えば、Aという世界線からBという世界線に移動した場合、
元々Bという世界線にいた私は、
別の世界線に移動して、今のBという世界線にいる私は、
元々Aという世界線から来た訳です。
何故世界線を移動したと思うのかというと、
プリントの日程が変わっていることで、
別の世界に来たことが分かったからです。
では、Aという世界線とBという世界線の違いは、
プリントの日程だけなのでしょうか?
Bという世界線にいた私と、
Aという世界線から来た私との違いはないのでしょうか?
Bという世界線の人達が、Aという世界線から来た私を、
何の違和感もなく受け入れてくれるのなら、
本当に世界線を移動したと言えるのかな?と不思議に感じます。
それとも”そういう設定だから”受け入れてくれるものなのでしょうか?
それなのに何故、プリントの日程だけが変わってしまうのでしょうか?
異世界転生モノだとよく「まるで別人のようだわ」
みたいなことを言われるんだよね。
主人公は入れ替わったことを隠したいのでドキっとしたり。
私は中学校の時の同級生と話していたら、
にゃんちゃん、すごく変わったねと言われました。
私としては、過去から積み重ねてきた記憶があるから、
当然の変化が起きたと感じるのだけど、
久しぶりに会うとそうなのかな?と。
その同級生は、当時のまま大人になった様な性格でした。
 
また、情報領域の変更の場合と考えると、
何故プリントの日程だけが変更されるのか、
他の変更箇所はないのか、
その個人マンデラが起きる時には、
何かしらの法則性はないのか?と調べます。
変更箇所の意味はあるのでしょうか?
 
例えば、マンデラエフェクトと呼ばれているいくつかの現象から、
私が受ける印象は、深刻さがなくなってきているというものです。
先日、このマンデラについてのブログ記事を書いた後すぐ、
娘が最近のマンデラに何があるか調べたんだけど~と言われて、
(すぐシンクロしちゃう娘)
タッチの歌詞のマンデラを聞きました。
ちょっと歌ってみてと言われて、歌ったら、
ため息の数がため息の花になっていると教えて貰いました。
 
私は当時、切なくてため息を沢山ついてしまって、
それを集めたらブーケになったみたいなイメージで、
捉えていたので、花?と驚きました。
花だとすると、ため息の花とため息ではない花があって、
ため息の花だけチョイスして束ねてブーケにしました!という感じで、
深刻さが軽減されている様に感じたのよね。
(伝わります?)
ため息をつきまくっているから束になっちゃうのよと思っていたのが、
ため息ついた時だけ集めたものをブーケにしたのよに変わったのかな?
という印象なのです。
 
全部が全部ではないのだけど、考える人も、
おでこの方が深刻な感じ、顎はぼんやり物思いに耽る感じがしますし、
モナリザがめっちゃ笑っているのとかも、深刻さが減っている感じがするのです。
ちなみにモナリザは、小学生の頃に読んでいた漫画のある一場面に、
モナリザの絵についての説明があって、
いくつかの特別な技法が詳しく語られていました。
あまりよく覚えていないのだけど、
遠近感がどうとか、レースの描き方?とか、
レースから風景が透けて見えるとか、
その他に、笑っている様な口元ではないのに、
笑っている様に見える様に描かれているという説明がありました。
それをずっと覚えていたので、明らかに笑っている今のモナリザを見ると、
つられてこっちも笑ってしまいます。
 
私はそういう点から、マンデラが起きたものに何かしらの、
象徴的な意味があるのではないかな?と考えています。
意味不明、無差別に選んだものが変更されたのではなくて、
何かしらの意味があって、私たちが見ているという風に感じます。
というか、高次元の領域はユーモアにあふれていて、
冗談とか洒落とかすごく好きというか、
そういう切り口でメッセージを伝えて来ることが多いですよ。
えふさげているの?みたいな。
 
 
今朝は、家の周りで異常な数のカラスが集まってきて、
大騒ぎしていたので、ちょっと怖くなって、
こっそり猫と窓から覗いていたら、
フクロウがカラスに追いかけられて、
家の前を飛んでいきました。
家は、密集した住宅街にあって、
絶対に居ないはずとは言わないけれども、
まず、フクロウなんて見かけないだろうなと思うのよね。
でも、飛んで行った。
百歩譲って、
密集した住宅街にもフクロウが出没するとしましょう。
(平地で木々は少なく、でも川はまぁ遠くないところにはある様な地域)
いたとしても、たまたま早起きした日曜の朝、
たまたま覗いていた窓の目の前に、
フクロウが飛んでいるところを目撃するという偶然が起きた。
不思議です。
フクロウ…と言えば、サラとソロモンなので、
こういうシンクロが起きたということは、
サラとソロモンを教科書にもう少し勉強した方がいいのだなと、
感じました。
 
フクロウは、福来郎=福が来る、
不苦労=苦労しない、といった意味があるみたいですね。
縁起が良さそう。
(というか、何を見ても縁起がいいに変換しますけど)

 

 

先日の記事にも書きましたが、
車のドアを開けたら隙間にカエルが居たことがあって、
これも、あり得る?と驚きました。
バックドアは1週間に一度しか開けないし、
車に乗ったのも二日前で、ドアは閉めっぱなしだったのに、
生きた状態でカエルが潜んでいました。
干からびて死んでいるのが挟まっていたというのは、
あり得なくはないかなと思うのだけど。
 
こういう生き物のおかしな現象とかもよくあります。
何度も書いていますけど、
高次元の領域では物質化、現象化など容易いので、
霊的な現象と言った時には、
現実的物質的に目で確認出来ることが起きます。
他の人には見えない世界が見えた、
私だけには天使が見えたとかではなくて、
天使だったら、娘が幼稚園の時に、
園舎の中にある下駄箱の娘の靴の上に、
白い大きな羽が乗っていたことがあったのだけど、
白い羽なんかで現象を見せてくれます。
 
そういう意味でも”個人マンデラ”と括られる現象については、
慎重に検証すべきで、
私から見ると、個人マンデラが起きたと言う人のほとんどは、
検証確認をせずに、
現象のみに囚われ、報告する事、それもちょっと自慢気に、得意気に、
選民思想によって、自分は特別であることを誇示する為に、

ネットで発信している人が目につきます。

 

だからこそ、一層頭のおかしい人、

 記憶違いなのか勘違いなのか思い込みではないのか?

と感じてしまうのです。

 

統合失調症だというFFだったある人のツイートを、

一時期観察していたのだけど、

(最近こっそり解除しました)

ある時期からの記憶がなくなって、

気付いたら精神病院だった、

恋人がパソコンの中に消えてしまった、

何度もタイムリープしている、

ということを繰り返し訴えていました。

 

読んでる方が頭がおかしくなりそうだったのだけど、

自分が感じている状態を、

スピリチュアル的な意味に変換して表現する人

というのは結構いる様に感じます。

上記の人は治療を受けて居るそうですし、

ストーカー的なことをされたり、

過去にもしたことがあったそうで、

精神病的な何かがあるのだなとは、

親しく会話しなくても分かるくらいの状態でした。

 

個人マンデラと表現する人も、

本当にそれをマンデラとしてよいのか、

それとも別の何かなのか?というのは、

本当はその人自身が検証することなんだけど、

何でもありとか自由とかいって、

検証すらしないというのは、言い訳にしか思えません。

 

例えば、自分のツイートに対して、

思った様な反応がなかったとします。

そういう時、このツイートが見える人と見えない人がいるから、

反応がある時とない時があるんだよ、

と言う風に解釈する人たちがいます。

 

物質的な側面で考えると、

ツイートした時間の関係で、

ツイッターをやっている人が少なくて、

目に付かなかったとか、

相手のTLに流れなかったといったことが、

原因かなと、私なら考えます。

また、そもそもこのツイートに興味を示さなかった、

共鳴する人がいなかったとも考えます。

 

けれども、見えない人がいるんだという解釈をする時、

前提として、自分のツイートは多くの人に、

受け入れられるハズで、共鳴されるハズで、

反応してもらえるのが当たり前なのだとしています。

その当たり前ではないことが起きたから、

それはスピリチュアル的な、マンデラ的な、

世界線的な何かが起きたのだと解釈するのです。

 

そうでしょうか?

 

そもそも何故、他人の反応をいちいち気にするのでしょうか。

こういった人の立ち位置として、

根本的に他人軸で、

いつでも自分が一番で、他人とは違う、

特別な自分で、という設定が根底にある様に感じるのです。

 

自己愛性パーソナリティ障害的な特徴があるなと。
 
精神病まではいかないけど、問題がある様な人達、
”患者はたいてい自分が問題であるとは認識していないため、
多くの場合において精神療法は困難である”とwikiにはありますけど、
本当にその通りだと思います。
 
他者の反応や現実が自分にとって受け入れられない時に、
何とか納得させる為に、
個人マンデラという様な表現を用いるのではないのかな?
という印象を受けます。
これがあることによって、自分が悪い訳ではない、
どうしようもない、仕方がないという言い訳が出来ます。
その個人マンデラでさえも、自分に必要で起きたことで、
自分に責任があるとしたら、
どのように感じるのでしょうか?
 
法則や真理というのは、創造主でさえも規制されていて、
宇宙を創る根本的なベースになっています。
個人マンデラという現象がもし起きるのなら、
それに対しても何らかの規則性やパターンなどが、
どこかしらに見られるのではないかな?と思います。
 
例えば、Aという世界線からBという世界線に移動した〇子さんは、
何故、Aという世界線でもBという世界線でも、
自分はマンデラーだと認識し続けていられるのでしょうか?
Aという世界線から来た〇子さんが、Bという世界線に来てから、
また別の世界線に移動してしまったとします。
その時、Bという世界線にいるのは、別の世界線から来た〇子さんですよね。
でもその時も、同じ設定は維持していますよね。
どの世界線から来ても、よくこういうことはあるのだという認識で、
例えば、世界線の移動が初めてという〇子さんは出現しません。
度々世界線が移動して別の〇子さんになるにも関わらず、
こちらから見る限り、基本的な設定は変わっている様に思えないのです。
全く別人になった様な感じではなくて、
覚えていることと覚えていないことがあるだけに感じる時、
その人が移動していると言えるのかな?と思います。
移動している〇子さんの視点からは、
世界が変わっている様に見えるのかもしれないのだけど、
こちらから見る〇子さん自身は、入れ替わっている様には見えないのは、
どうしてなんでしょうか。
 
自分の言動とか、表現とかについて、
一体どういう意味で使っているのかな?と振り返ってみたり、
いくつかのパターンを出して、
その度にどういう現象が起きるのかな?と検証してみると、
自分を客観的に観察する癖もついてくると思います。
 
私のガイドたちは、私がそうやって細かく検証するのを、
とても喜んでいます。
信じられないのだったら、信じられるまで調べて検証してみたり、
信じられないことを無理に信じさせようとはしません。
選択の自由を尊重してくれるのです。
 
今朝のフクロウを見たという現象だと、
もの凄い数のカラスが家の周辺に集まってきて、
うるさいくらいに鳴き声がして、
窓から覗かずにはいられないという状態になりました。
無視できないと感じて、覗いたら、
フクロウが飛んで行きました。
信じられないと思う時、信じるしかない様な出来事が、
繰り返し繰り返し起きてきます。
そうやって自分でこれを信じようと選ぶのです。
 
個人マンデラの人から感じるのは、
基本的な検証確認をしている様子が見られないこと、
事実なのかそうでないのかすら確認せずに、
発信する、人に伝える方をまず優先すること、
などです。
 
私のフクロウの場合だと、
フクロウは住宅街に出没するのか?
自分が住んでいる地域にフクロウは棲息するのか?
見たものはフクロウであると断定できるのか?
ということを、インターネット上だけですが、
いくつも調べて、自分なりに納得して、
あれはフクロウである。
住宅街に出没するケースもまれにある、
自分が住んでいる地域(ちょっと遠いけど同じ市内)にも、
遭遇した人が何人かいるということを確認して、
記事に書きました。

こういった確認が取れないことは、書きません。

 
自分に起きた現象を自慢の種にする為だけに利用する、
という人がマンデラ界隈、引き寄せ界隈に多い様に感じるので、
胡散臭くなるのではないかな?と思います。
 
ここで言えるのは、
個人的な誰かの現象と自分に起きたことをいちいち比べない、
他人にとっては真実でも、
自分の真実とする必要はない、
誰に否定されたとしても、自分だけは信じられると思えるほど、
検証確認をしっかりする、
ということです。
 
あなたが、それが本当に真実であると思うのなら、
誰かを説得する必要はないでしょう。
でも、信じてくれない人を見下したり、
自分は特別だから人とは違う現象が起きるのだ、
と言う様な姿勢でいる限り、
霊的な成長を遂げることは出来ませんし、
他の人の成長の妨げにもなり、
結果的には悪因を積むことになるということは、
覚えておいた方がよいと思います。