「ちょんまげの話」
1830年(文政13年)の昨日、8月10日に「大久保利通」が薩摩藩士の家に生まれています。利通は西郷隆盛、木戸孝允と共に「維新の三傑」の一人として、明治維新の推進者となり、新政府の中心として新国家建設に尽力しましたが、明治11年に暗殺されました。
(若き日の大久保利通)
「我が国、欧米諸国とすでに結びし条約はもとより平均を得ざるものにして、その条中殆ど独立国の体裁を失するもの少なからず。英仏の如きに至っては我が国内政の未だ斎整を得ずして、彼が従民を保護するに足らざるを口実となし、陸上に兵営を構え、兵卒を屯(とみ)し、ほとんど我が国を見ること、己が属国の如し。ああ、これ、外は外国に対し、内は邦家に対し、恥ずべきの甚だしきにあらずや。それ、条約改正の期、すでに近きに有り。在朝の大臣、よろしく焦思熟慮してその束縛を解き、独立国の体裁を全うするの方略を立てざるべけんや。。」 (征韓論、反対意見書)
(征韓論の激論)
〇ちょんまげ断髪令
最近の若者の頭髪は長短さまざまですが、今頃、ちょんまげを結うことなど、相撲の世界のほかは考えられません。しかし、150年ほど前の江戸時代までの男性は、みんな月代を剃って「ちょんまげ」を結っていました。
ちょんまげは、武士が戦さのときに兜をかぶって戦うときに、湿度の高い日本では、戦闘中に兜をかぶっている頭が汗で蒸れてしまうので、その蒸れを防ぐ結い方として考えられたのが、月代を剃ったちょんまげなのだそうです。
(職人のちょんまげ) (武士のちょんまげ)
もともと、丁髷(ちょんまげ)とは、江戸時代の男性にみられた髪型の一種で。月代(さかやき)と呼ばれる前頭部から頭頂部にかけての範囲の頭髪を剃り、残りの頭髪を結ったものを言います。
また、丁髷(ちょんまげ)という名前の由来は、結った髪が「 ゝ(ちょん) 」の字に似ていたことによるそうですよ。
ところで、1871年(明治4年)の8月9日に「断髪脱刀令」が出ました。ちょんまげを切って、刀はさすな・・というわけです。
(中央のちょんまげが岩倉具視、右端は大久保利通)
この年、岩倉具視、大久保利通らの使節団が欧米を廻りましたが、行く先々で西洋人が日本人の風俗について奇異の感を抱いているのを知りました。とりわけチョンマゲについては、頭にピストルを乗せているようだ、といったような冗談を何べんも聞きました。そこで、帰国と同時に、チョンマゲ廃止を決定し、この法令を出したのです。
とはいっても、長い間のちょんまげという整髪の習慣が一朝一夕にして変わるはずもなく、また取り立てて罰則もなかったので、チョンマゲは明治中期まで、ごく普通の風俗として残っていました。
断髪令が出て、大急ぎで散髪屋も開業しましたが、にわか仕込みなので腕の方も頼りないものでした。料金三銭ないし五銭で調髪しましたが、理容の材料や設備も、ないに等しく「玉子洗い」というのが流行しました。要するに最近のシャンプーのようなものですが、タマゴを割ってそこから出てくる中身を手のひらに受けて、髪になすりつけるのです。
(幕末の床屋さん)
早々とチョンマゲを切り落として、ザンギリ頭(散切り頭)になった人物たちが町を歩くと、人だかりがしたという話です。月代を剃らずに髪を撫でつけて後ろで束ねるのを「総髪」と言い、医者や学者、坂本龍馬などの幕末の浪人などがこの総髪頭でした。
(坂本龍馬)
そこで、断髪令が出た後では、総髪を「総髪頭(そうはつあたま)をたたいて見れば王政復古の音がする。」
ザンギリ頭は「ザンギリ頭を叩いてみれば文明開化の音がする」という言葉が流行りました。
(ちょんまげの種類)
自分からすすんで断髪して、いわゆるザンギリ頭にする者が増える一方で、ちょんまげに執着する者も多かったのです。明治9年に反乱事件を起こした熊本の「神風連」などはちょんまげ姿で通し、電線の下を通るときは、頭が汚れると「扇子で頭を覆って」通り抜けたという話があります。
高杉晋作や新選組の土方歳三も、のちにはザンギリ頭になっていますね。
(高杉晋作) (土方歳三)
(ちょんまげいろいろ)
ザンギリの真ん中の部分だけ幅5センチほどに細長く剃りあげてチョンマゲの名残を残した「べっつい」という刈り方も職人たちの間では流行しました。現在の「モヒカン刈り」といわれるものの原型です。(真ん中を残す今のとは逆ですが・・)
頑固に一生チョンマゲで過ごした名士としては、鉱山王の古河市兵衛、行司の木村庄之助、俳優の坂東彦三郎などがいます。
しらん