信じなくていい不思議な話~亡き祖母の「いとまごい」体験談~ | 失敗から学ぶ君のブログ

失敗から学ぶ君のブログ

営業一筋24年。数えきれない程の失敗や挫折を繰り返し、未だに失敗をしている中年オヤジです。今では畏れ多くも管理職を拝命させて頂いておりますが、組織運営も失敗の連続!そんな私が出会った本や失敗談、不思議体験や日々の出来事や感動した事をご紹介します!

ご無沙汰でごいます。

 

今回のお話は信じなくていいお話です。

 

亡くなる間際の「いとまごい」のお話です。

 

ちなみに「いとまごいと」は亡くなる前に、もしくは亡くなった後に故人が霊体となって家族や縁の有る人にご挨拶に来る現象の事です。

 

なので、今回は信じなくていい、私と家族や縁の有る人達の体験談のお話です。

 

実は・・・。

 

先日、100歳の祖母が永眠しました。

 

何分田舎のしきたりも有り、両親とバタバタしており、ブログが更新出来ませんでした。

 

祖母は大正、昭和、平成、令和を生き抜いた明るくお茶目な女性でした。

 

75歳頃まで現役の理容師として地域の皆さんに愛されていた祖母。

 

職人としてお弟子さんも多く輩出し、理容師一本で家事は苦手な女性でした。

 

葬儀場を出て火葬場へ向かう途中、一度慣れ親しんだ自宅と近所を霊柩車でまわりました。

 

その際に、沿道に多くの縁者の方々がお見送りに来て下さいました。

 

その人数を見ても、本当にその人柄が見て取る事が出来ました。

 

しかも皆さん涙を流しながらお見送りをして下さいました。

 

本当にありがたかったです。

 

祖母は2か月前に転倒して、その際に頸椎と背骨に重傷を負ってしまい、施設に入って寝たきりになっていました。

 

大食漢で1日5食も食べていた祖母でしたが、施設に入るとめっきり食べる事が出来なくなりました。

 

入所してからすぐに食べる事が出来なくなり、点滴で生かされていました。

 

近所の仲のいい主治医さんも施設で看取って下さると言う事で、あまり長くはないなと感じていました。

 

亡くなる3日前。

 

私は普段、肩コリというものにあまり縁が無く、なぜか夜中から、左肩に激しい痛みを感じました。

 

それがずーっと続くのです。

 

もしかして・・・と思い、翌日の昼に実家へと向かいました。

 

父に「おばあちゃんの具合はどう?」と尋ねると、昨日から血圧が急激に落ちてきたと言う事でした。

 

実家の茶の間で他愛の無い話を両親としていた時です。

 

ひょこり、灰色の祖母が逆さまになりながら茶の間の扉の上から顔を覗かせました。

 

私は「いよいよ霊体が身体から抜け出して移動出来る事を覚えたな」と悟りました。

 

そうです。

 

「いとまごい」現象の始まりでした。

 

真夜中の12時過ぎ頃。

 

自宅の電話が鳴り響きました。

 

父からの電話でした。

 

「呼吸が荒くなってきたからいよいよかもしれないから施設に来てくれ」と言う電話でした。

 

すぐに長男と2人で施設に車を向かわせました。

 

私はふと、ある事に気付きました。

 

左肩の痛みが全く消えていたのです。

 

ますます今日が山場だな、と思いながら漆黒の夜道を走る車の窓を眺めていました。

 

施設に着いて、すぐに祖母の部屋へと足早に向かいました。

 

扉を開けると・・・。

 

目を見開き、呼吸が不規則になり、意識の無い祖母がいました。

 

私は、祖母の胸にそっと手を当てました。

 

「ばあちゃん、俺だよ、わかる?」と声をかけると、一瞬目を細くして答えてくれました。

 

無意識なので、身体の反射反応だったかも知れません。

 

でも私は知っています、と言うか実体験を複数回しています。

 

意識が無いとされる状態でも、本人の意識(霊体)がハッキリと有る事を。

 

それから1時間後、見開いていた目はいつの間にか閉じており、呼吸もほとんどしなくなりました。

 

私は脈と呼吸を確認し「亡くなったみたいだね」と両親に告げると、施設の看護師に連絡して確認してもらいました。

 

私は自宅で留守番をしてくれていた妻に電話を掛けました。

 

すると妻は「パパからの電話が鳴る前に玄関のドアがガチャっと開く音がしたから、やっぱり亡くなっちゃたか・・・」と話してくれました。

 

続けて、長男が祖母の亡くなる数日前から誰も乗っていないベッドが「ギシッ」ときしむ音を立てるようになったと話していたそうです。

 

後日、祖母が亡くなってからピタリとその現象は止みました。

 

明け方、近所の主治医の先生が駆けつけてくれて死亡確認をしてくれました。

 

死亡診断書を取りに、まだ誰もいない病院へと向かいました。

 

病弱だった私が幼かった頃、よく祖母からおんぶしてもらいながら連れ来てもらった町の小さな病院。

 

誰もいない待合室を眺めると、その当時の光景が脳裏に浮かんできます。

 

祖母はよく私に「注射をして泣かなかったら好きなオモチャを買ってやるぞ」と優しく微笑みながら人参をぶら下げてくれました。

 

主治医の先生が死亡診断書を書き終え、玄関で立ち話になりました。

 

「おばあちゃんね、拳くらいある肝臓がんが自然と綺麗に消えたんだよ、凄いね!」とお話して下さいました。

 

そうです。

 

過去の記事に書いた祖母の肝臓がんが綺麗に消えたお話の際に登場する主治医の先生だったのです。

祖母の肝臓がんが綺麗に消えた・・・何も化学的な治療をしていなかったのに! | 失敗から学ぶ君のブログ (ameblo.jp)

 

私は言っても良いか・・・と思い、先生に言いました。

 

「実は肝臓がんが消える3か月前から酵素水(メビウスウォーター)と水素茶なるものを飲ませていたんですよ」と。

 

先生は「水素茶??」と一言いうと「あなたのお父さんからはそんな話一切なかったよ」と戸惑った声で私に言いました。

 

「先生、私の父はあの時、お茶で癌が消えたなんて、気が狂ったか新興宗教にはまったと思われるんで、とてもとても言えなかったと言っていましたよ」と笑いながら先生に伝えました。

 

ちなみに先生は後で調べる為なのか、メモ紙に「水素茶」と書いていました。

 

死亡診断書が出来たので、ようやく祖母を施設から自宅へと連れて帰る事が出来ました。

 

そのお昼。

 

「こんちには~、お久しぶりで~す♪」と言う懐かしい声が玄関から響きました。

 

なんと数年ぶり、いや十数年ぶりに東京から来た、祖母よりも数年早く亡くなった妹の子ども、つまり私の遠縁の叔父さんが突然やってきました。

 

びっくりしたのは私の両親です。

 

葬儀場が混み合っており日取りが決まらなかったので、近親者以外には、祖母が亡くなった事を連絡していなかったにも関わらず、久しぶりに実家の墓参りをしようと思い立ち、偶然東京から車で来たとの事でした。

 

仏間の亡骸を見るなり「えっ?!叔母さん亡くなっちゃたの!?」と大変驚いていたと同時に、あまりにも不思議なタイミングに一同「ばあちゃんが知らせたんだね~」なんて冗談話をしていました。

 

それから程なく、近所に住む祖母の友人が3人駆けつけてくれました。

 

その内の一人が「あんたのおばあちゃん、今朝方、夢枕に綺麗な着物を着て舞っていたから、もしや!と思ってたんだわ~」とお話してくれました。

 

次の日も、祖母の古い友人が訪ねて来ました。

 

このご婦人も奇妙な事に「ばあちゃん、夢の中で着物を着て踊っていたから、もしやと思って来たんだわ~」と先日のご婦人と同じ事をお話してくれたのです。

 

そうです。

 

祖母は意識が無くなり、肉体から霊魂と呼ばれるエネルギー思念体となって、生前お世話になった方々の所へ旅立ちのご挨拶に回っていたんです。

 

そう「いとまごい」に。

 

あ、信じなくてもいいですよ。

 

幸いと言うか何と言うか、葬祭場も順番待ちで、火葬場も大変込み合っており、亡くなってから5日後が葬儀となったので、多くの友人や親戚の方々がお線香を上げに来てくださいました。

 

いよいよ出棺となり、火葬する最後の祖母との対面時、私の脳裏に走馬灯の様に祖母との思い出が溢れて出て来ました。

 

と同時に、目から滝のように涙が溢れ、頬を延々とつたっていきました。

 

妻がそれを察してか、背中をポンと叩いてくれました。

 

その瞬間、緊張が解け、声を上げて泣いてしまいました。

 

私の家系は女系で、男子になかなか恵まれせんでした。

 

祖母も6人姉妹で、4人が10歳にも満たない内に亡くなり、最後の妹も数年前に亡くなりました。

 

祖母の時代にようやく父が生まれ、婿を取る事が無くなりました。

 

その前に生まれていた父の姉がいたのですが、生まれつき心臓が悪く、二十歳を迎える前に亡くなってしまいました。

 

さぞかし辛い思いをしてきたのだろうと察します。

 

時代が時代ですから、子供が7歳を過ぎるまでの生存確率は低く、その為に七五三が有ります。

 

3歳まで生きる事が出来た、5歳まで生きる事が出来た、7歳まで生きればもう大丈夫!と、お祝いをしていたのが七五三参りです。

 

そして私が孫として生まれ、祖母は大変喜んでいたそうです。

 

ちなみに私は生まれつき心臓に疾患を患っていたので、祖母は大変心配し、体力が付いた3歳で大手術をしたので、回復後も祖母は大変かわいがってくれました。

 

私は、年齢を重ねていくと、その優しさが時に煩わしくなる時期もあり、冷たくあしらっていた時もありました。

 

朝から晩まで働き詰めの祖母。

 

お客様の髪を切る際は笑顔から職人の顔になります。

 

いつまでも当たり前に見続ける景色だろうと想像していた幼少期。

 

75歳を迎え、震える手はハサミを持つと何故か「ピタ~」っと止まるのです。

 

まさしく一家を支えた大和なでしこでした。

 

そして祖母の偉大さと、ご苦労を労って「ばあちゃん、長い間、本当にお疲れさまでした、ありがとうございました」と、声をひねり出して亡骸に手を合わせました。

 

「亡くなった娘さんと爺ちゃんに逢えて良かったねえ」ばあちゃん。