『しのゼミ』 -30ページ目

『しのゼミ』

日常で出会った「気付き・笑い・学び」を綴っています

▼ 和その1

いつも何もしていない罪滅ぼしにと,GWにもかかわらず遠出をせがまれる。

GWなんぞは遠出するもんではない・・・と家族皆に言い聞かせてあるんだが。

さすがにいつまでも誤魔化しは通じない。

遊園地に行くということで,長女ちーと二女みーのお守り役兼ドライバーとして駆り出される。



▼ 洋その1

久し振りにこういう所に来ると分かるのが,客層の変化。

以前には,この地方の遊園地にいわゆる外国のヒト達がやってくることはそれほど多くはなかった。

しかし,今は日本人以外が下手すると1割くらいは居そうな気がする。

その中身もモンゴロイドは言うまでもなく,ネグロイド・コーカサスに加えて南米系?と思われるネイティブアメリカンまで,今やあらゆる人種が溢れている。

なんだか米国のディズニーワールドとあまり変わらない気がすると言ったら大袈裟か?

日本の門戸開放はこういう所ですでにかなり進んでいる。



▼ 折衷その1

自分は一緒に楽しむのではなく,近くで本読みと決め込む。

この日の携帯本は「細雪」。

この谷崎作品を始めて手にするが,雪子のお見合いがうまくいかなかったり,東京に転勤になったりという日常―――世間体やら格式やら相手を慮る気持ちといった古式なものと寄り添う日常が柔らかに描写してあって,これぞ耽美的なんやなぁ・・・と思う。

それにしても純和風アートの代表作とも言える本書を,米風コマーシャリズムの極致とも言えるテーマパーク内にて読む。

このミスマッチ。

なかなかいいもんだ。



▼ 和その2

園内では,ちーとみーについて廻る。

コーヒーカップ程度だと10分程度の待ち時間。

人気のジェットコースター関係はさすがに1時間程度の行列だ。

やめとけというのに,長い行列に並びたがる我が子ら。

文句も言わずにじっと並んでいる。

そうしてたった数十秒の楽しみが終わると,満足そうな笑みを浮かべて自分のところにやってくる。



▼ 洋その2

行列待ちが長そうなので,近くのベンチに偶然空いた場所を見つけて座る。

そうすると何時の間にやら着ぐるみのウサギがやって来て,すぐ近くで子供たちとのふれあい&写真撮影会が始まる。

着ぐるみの横に立たせた我が子を写真におさめる親。

子供らもみんな,怖がりもせずに着ぐるみと握手やらハグしている。



▼ 折衷その2

そうしていると,スタッフと思しきヒトが,自分が座るベンチのすぐ横に大きな装置を設置し始める。

設置が終わると,それは大きなスピーカー付きらしく,バンジョーによる賑やかな音楽が鳴り始める。

やかましいっちゅーねん!

細雪の筋が吹っ飛ぶではないか!

着ぐるみとの撮影会を盛り上げようとの演出だろうが,別に音楽など無ければそれでいい。

かと言って場所を移動すると,空いたベンチを探すのに一苦労だろう。

・・・・・しょうがない。

折角キープできた自分のベンチの場所でじっと我慢する。



結局,夕方の6時過ぎまで遊びまくった我が子らにお付き合い。

細雪を読む以外には何もしていないハズなのに,やたらと疲れた・・・・・



「民は水火に非ざれば生活せず。而れども水火又能く物を焚溺す。飲食男女は,人の生息する所以なり。而れども飲食男女又能く人をしょう害す。」

『孟子は人間は水と火がなければ生活出来ないといった。しかし,水は人を溺らせ,火は物を焼く。飲食や男女の交りは人が生きるのに必要なものであるが,この二つとも人を害する危険があることは注意しなければならない。』

(「言志四録」佐藤一斎著/川上正光訳 講談社学術文庫)






<しの訳>

▼ 諸刃の剣

何も飲食男女に限らない。

うまく使えば百人力。

しかし使い方を間違えれば危険。

そんな使用上の注意を必要とするものが,身の回りに溢れかえっている。

最近の子ども達にとっては,ゲームというものがこれに相当するのかもしれん。



▼ いっ君の必要悪

何も予定がないGWに加えて,宿題もそれ程出ていない長男いっ君(中一)。

悪友のY君が全寮制の生活からつかの間の帰省中で,シノ家に遊びに来ている。

そういう事情もあって,朝から晩まで二人はゲーム三昧。

「Y,さぁゲームやるぞ!」

「おぅ,やるぞ」

ちょっと待ったぁ・・・という親の言うことも無視。

歯止めが利かず。

とうとう堪忍袋の緒が切れて,シノ妻がゲーム機を取り上げるという挑戦状を叩きつける。



食事と睡眠の次にゲームが大切ないっ君は黙っちゃいない。

「ゲーム返せ!」

「返さん!」

「返せったら!」

「返すモンか!」

そんな押し問答の末,完全にぶち切れたいっ君。

玄関を思いっ切りガシャン!と閉めて,既に夕闇濃くなった外へフラフラと出て行った。

そのうちに帰ってくるやろ・・・と放っておいたが,30分・・・1時間しても帰ってこない。

心配になったY君が近くのコンビニやら本屋やらへ探しに行ってくれるも,いないようだ。

「いっ君・・・どこ行ったんやろ?」



いっ君の生まれて初めての家出。

こういう時はいよいよ父親の出番だ。

こんなケースで,悩んだ子はどこに行くか?

それはズバリ,「海を見に行く,出来れば砂浜で風に吹かれながら」。

しかし申し訳無いが,シノ家から最寄りの砂浜までは歩いて3~4時間かかる。

なので,現実的に見ればこの可能性は低いか。

ならば,橋の上から川面を眺めるとか,近くの人気のない校庭で独りバスケをしているとか・・・

父が思いつく限りの場所をいろいろ探すが,いっ君はいない。

かれこれ小一時間ほど探し回るも,結局見つからずに途方に暮れる。



▼ 灯台もと暗し

っで,しょうがなくシノ家に戻ると,中からいっ君の楽しそうな声が聞こえてくる。

いつの間にやら,帰ってきているようだ。

まったく,心配させやがって・・・・・

ところで一体全体,いっ君はどこに行ってたのか?

参考までにいっ君に問いただす。

すると,いっ君の答えが聞いて呆れる。

なんと,シノ家の裏にある木に登っていたらしい。

せめて,近くの公園でブランコをしていたくらいにして欲しいと思う父。

最近の子は定番を解しないというか,ワケわからん・・・・・


   □   □   □   □

学生と社会人の最大の違いは,社会に出たら教科書にないまったく新しい問題に直面することである。
新しい問題だから,解答もわからず,正解もない。

とくに人間関係に絡む問題に正解はない。
男女の別れ方と同じで,対応の仕方は千差万別である。
人それぞれのやり方がある。
正しいか否かではなく,事態に上手に適応できるか否かがポイントである。

  本  プロ弁護士の思考術 (PHP新書)/矢部 正秋

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   □   □   □   □



▼ 正しい選択とは?

何事にも正しい解がただ一つ。

それが当たり前だと思われがちだ。

それはひたすら正解を目指して問題を解いた中高時代の名残と言うべきか。

なるほど実際には,ゼッタイ的に正しい答えなどあまりない。

ならば,とりあえず最適解(あるいは最好解)を選んでおく。

そして,それに適応していく・・・という考え方。

なかなか含蓄がある。



▼ 2強対決には・・・

オグリキャップとスーパークリークのどちらが強いのか?

そんな2強ムードで迎えた1989年暮れの有馬記念。

これまでの競馬人生で,この時ほどワクワクドキドキしたことはないかもしれん。

・・・最終コーナーを回って先頭のスーパークリークが内。

そしてオグリが外から忍び寄る。

最後の直線でこの二頭が叩きあいになる。

抜きつ抜かれつのデットヒート。

最後はオグリが鼻差で勝つ!

頭の中で何度シュミレーションしても,この最後の結果は同じ。

しかし,競馬に絶対はないとはよく言ったモノで・・・・・

フタを開けてみたらオグリは直線なぜか伸びずで五着。

先頭に立ったスーパークリークも,外からのイナリワンの急襲にあって二着。



▼ 馬券では・・・

これだけの2強対決ならば,両者の連複馬券の倍率は低い。

なので,薄利だが一点集中でいくもよし。

あるいは両者の連複馬券を抑えておいて,他馬との組み合わせを考えるのもおもしろい。

どちらかがコケルとして,どちらかの馬を軸とした流し馬券で遊ぶ。

こうした場合,選択の幅は広そうだ。



▼ 1強時代

ディープインパクトの引退レースとなった有馬記念。

第四コーナー辺りで観戦したが,コーナーを周る足取りが他馬とは違う。

気合いを入れると,他馬に比べて足の回転速度が1.5倍ほど速く見える。

普通に走れば勝つハズだ。

っで,戦前の大方の予想通りディープの圧勝で幕を閉じる。

この場合の馬券としては,絶対的な軸であるディープから流すのが最適だろう。

この相手探しで,選択の幅を広げるしかない。

ディープを外すという選択もありうるが,総合的に考えると暴挙かもしれん。



▼ 考えて見れば・・・

馬券に限らず,私たちの日々の「選択」は同じような思考プロセスを経ている。

たとえば日々の食べるもの・すべきこと・訪ね先などから,節目の大事な選択(就職・進学など)に至るまで,まずは最適な解を模索する。

そのために順当に選んだり,突飛な選択で遊んだり,保険をかけたり,二股かけたり・・・

この馬券購入といかに似ていることか。

さらに脱線すれば,配偶者選びも似たようなもの。

まずは結婚しなさい。

良い妻を持てば幸せになるし,悪い妻を持てば哲学者になれる・・・・・

ソクラテスの言葉は,最適解を選ぶ難しさとともに,その後の適応の大事さをも言い当てた教えかもしれん。



とりあえず最適を選び,工夫して使いこなしていく。

ただ一つの正解を選ばなければならぬ窮屈さに比べれば,ずっとおもしろい。





「善を責むるは朋友の道なり。只だ須らく懇到切至にして以て之に告ぐべし。然らずして,徒らに口舌に資りて,以て責善の名を博せんとせば,渠れ以て徳と為さず,却って以て仇と為さん。益無きなり。」

『善行をなすように責め合う事は朋友として当然なすべきことである。その場合,忠告は懇ろに親切をつくさなければならない。そうせずに,ただ口まかせに忠告し,善を責めたという美名をとるだけのものであれば,その友人は有難いと思わずにかえって仇と思うことであろう。そうなれば,忠告は全く無益のことになってしまう。』

(「言志四録」佐藤一斎著/川上正光訳 講談社学術文庫)






<しの訳>

▼ 忠告されてるか?

多くの場合,忠告から学ぶことは多い。

自分の癖・短所・不足・過剰など,何かしら言い当てている。

しかし最近は,忠告を受けることが少なくなった。

これは何を意味するのだろう。

それだけ人間が完成した?

そうではあるまい。

忠告してもムダだと思われてる?

ひょっとして朋友がいない?



▼ 素直に聞けるか?

たとえ忠告してもらったとしても,それをどう受け止めるかという更なる問題がある。

素直にその忠告を受容できるか?

特に年齢を重ねると,この素直さは失われていく。

えらそうに・・・とか,こっちの立場も考えろ!・・・とか,ならばもう二度と〇〇はやらん!・・・とか,そっちこそどうなんやねん?・・・とか。

忠告を聞いて,真っ先に出てくるのはこれら「反発」。

素直に「ありがとう」とは出てこない。



▼ 朋友以外にも・・・

たとえば後輩のアミ先生。

先輩であるところの自分に対しても,彼女はズケズケとモノを言う。

自分なら自重するのに・・・という内容や場面であっても,そんなに気にしていないようだ。

先日も,自分が行った過去の病理診断について,アミ先生から「忠告」がある。

――― あの~,この病理所見に書いてあるG1ですけど,G2くらいではないでしょうか?

ガンの形態の「悪さ」を表現する「組織学的グレード」というのがあって,そこが違うのでは?というアミ先生。

言われて見直せばG2の部分が確かに多い。

が,G1の部分も一部にはある。

以前に診断した時は,このG1部分がちょっと広めに見えたのだろう。

――― 確かに今見ればG2みたいやけど,まぁこの程度の違いやったらええんちゃう?

G2としようがG1としようが治療には影響しない。

そんな「瑣末」なことなら,あえて言わんでもええやん・・・・・

そんなふうに反駁し,まったく素直になれない自分。

これじゃあ,忠告するヒトが減ってきて当然か。

――― 教えてくれてありがとう。

とりあえず次回は,この言葉を言うことにしよう。





   □   □   □   □

人間は深刻な問題に直面すると,感情的な反応をするようにできている。
周章狼狽してしまい,有効な対策を考える心の余裕もなくなる。

だから漫然と悩むことをやめ,現状でとり得るオプションを考えることに精神を集中することが決定的に大切である。
問題をあれこれ蒸し返して悩むのではなく,ただ解決策を考えることにのみ集中する。

どんなに不快であっても,現実は現実として受容する。
つぎに「不快な現実を変えるためのオプションは何か」を考える習慣を身につけることである。

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▼ ちーの無念

長女ちーが,空手の県大会で上位入賞ならず。

並々ならぬ気合いで臨んだ今大会。

なにせ上位入賞の暁には,念願のMDプレーヤーを買ってもらうというニンジン付き。

なので盛り上がった分,叶わない場合の落ち込みは激しい。

「・・・がんばったからええやんかええやんか,買ってよ~」

「約束は約束やん,ダ~メッ!」

「そんなんええやんかええやんか・・・・・」

「〇〇ちゃんも△△ちゃんもがんばってるから,それ以上にがんばらんとアカンね」

「そんなんムリやししょうがないやんか・・・あの子ら,うちよりも上手なんやし」

「だから練習がんばるんや,ちー」

「もういい・・・空手やめる!ウェ~ン」



▼ オプションは?

ちーの敗因は何か?

父の素人目には,上体が全体に高いし,「蹴り」の高さが低いのがマイナスに思える。

稼ぐべきポイントなのに,アピールできてないやん・・・と思う。

母に言わせると,ちーの技は一つ一つは丁寧だしきれいだ。

しかし,それら技の「流れ」を見ていると,どことなくぎこちない。

キレがないというか,しなりがないというか,のびやかさがないというか,メリハリがないというか・・・

要するに,結論としては体が堅いっちゅーねん。

「ちー,もう少し身体が柔らかかったらええのになぁ」

「あたし,友達にも身体が堅いねって言われたことあってん」

「そしたら,風呂あがりにストレッチでもやってみるか」

「・・・ストレッチしたら,空手うまくなれるかなぁ?」

「かもしれんな」

オプションが決まれば,がんばっていける。

ちーの顔に笑顔が戻る。



▼ 使えるかも・・・

大きなことから小さなことまで,自分たちの思い通りにならず,失敗を重ねることがある。

するとあれこれ悩むのが凡人の常。

「ああしとけば・・・」とか「こうだったら・・・」とか「アホやな・・・自分」とか「つきあいきれんわ!自分」とか「もうやめたい」とか・・・・・

後悔・狼狽・憤怒・自責・自嘲・自棄・逃避・・・・・

受容に至るまでには長い時間がかかる。

そういう時は,具体的解決策のオプションを考えることに没頭するのが良いと言う。

そうすれば,抜け道が見つかる上に精神的な余裕が生まれる。

確かに,ちーのちっぽけな悩みならば,一瞬にして効果てきめん。

試す価値はありそうだ。