「子どもには教育が必要である」
っていう考え方は要らないなぁ、って思う。
教育って何のためにするのか?っていうと、
「国家のため」
なんだよね。
明治維新があって、欧米列強に追いつけ追い越せで、国を強くするために教育制度が整備された。
こういう流れをたしか、富国強兵って言うだったと思う。
国家の発展のための教育です。
まぁ、それは日本国に住んでるんだから、国家の発展のためにがんばろうぜ、っていうのは納得はできる。
ただ、それって、
「国や学校から強制されるもの」
ではなく、
「子どもの自由意思に基づくものであってほしい」
って思うんよね。
国のために尽くす駒になるためではなく、
1人の人間として、他者を想い、助けたり、協力をしたりする。
そのために、必要な能力や考え方を身に付けるための教育であってほしい、って思う。
「子どもに教育が必要である」
って考えるならば、それって、
「子どもが無力であり、未熟である」
っていう前提に立つと思うんだよね。
「子どもであれば、無条件で教育が必要である」
っていうのは、そういうことやん?
そもそも、
「義務教育」
の意味って、
「親が、子どもに普通教育を受けさせる義務がある」
っていうことやったよね。
子どもは、
「教育を受ける権利」
を持っている。
子どもが持っているのは権利だから、
「教育を受けるかどうかを選べる」
はずよね。
であれば、大人が、
「子どもであれば、無条件で教育が必要である」
って考えるのは、子どもの権利を無視しちゃう発想だよなと思うんよね。
大人が、子どもの「教育を受ける権利」を尊重するのであれば、義務教育の意味は、
「子どもが教育を受けたいと思った時には、教育を受けさせなければならない」
っていう意味になると思うの。
子どもが教育を受けたいと思ったら、教育を受けさせる。
教育を受けたいと思っていなかったら、教育を受けさせる必要はない。
子どもは教育を受けたいと思っていないけど、親が教育の魅力を語り、子どもが
「教育を受けてみたいなぁ」
って思うようになることは、全然あると思う。
「どんな子どもでも、無条件で教育を受けるものだ」
っていう発想は、子どもの個性や特性、背景などを無視してるよなと思う。
教育が国家のためであるならば、国家が求める人物像があり、それに合わせた教育になるから、画一的な教育になる。
その場合、教育は、国家のためではあるけど、子どものためにはなっていない。
そうすると、
「子どもが国家のために犠牲になる」
っていうこともあり得るようになる。
戦時中とかは知らんけど、少なくとも今の時代には
「子どもが犠牲になる」
みたいな発想は無い。
そうなると、教育が国家のためであったとしても、
「子どもが幸せを感じられるような教育」
でなければならないとはず。
教育は、国家のためでありつつ、子どものためにもなっている。
子どものためになる教育なのであれば、子どもの個性や特性、背景などに合わせて、教育の形も変わるはず。
偏差値が30の子どもと、70の子どもの授業が同じでいいわけないよね。
身体を動かしたい子どもと、ジッと本を読んでいたい子どもの授業が同じでいいわけないよね。
家でも勉強の続き(=宿題)をやりたい子どもと、家ではゲームをしたい子どもの宿題が同じでいいわけがない。
教育が「子どものため」であるならば、子どもが教育を選択する権利があるはず。
言い換えれば、教育は子どもに合わせた多様なものでなければならないはず。
子どもの数だけ教育の数がある。
子どもの数だけ教育を用意するとなれば、明らかにリソース(人やモノ、金など)が足りない。
ただ、
「教育は子どもの権利である」
っていうことを踏まえると、次のようなことが言える。
1.教育を受けたい子どもと受ける必要が無いと思う子どもがいる
2.公教育(集団教育)に合う子どもと合わない子どもがいる
3.特別なニーズを持った子どもがいる
「特別なニーズ」っていうのは、発達の特性っていうよりも、
「特殊なことがやりたい!」
っていうニーズのこと。
専門学校とか、高専みたいに、何かに特化したことが学べる学校のことです。
教育を受けたくない子どもに無理に教育を受けさせる必要も無い。
公教育に合わない子どもに無理に学校に通わせる必要も無い。
とはいえ、教育を完全に子どもの要望通りにする必要も無いと思うんよな。
子どもが求めている通りのことを実現するのであれば、その教育は子どもの世界を広げないわけよ。
子どもの世界を広げないなら、教育を受ける意味がそもそもない。
子どもの世界を広げるのであれば、子どもの想定を超えていかないといけない。
教育を受けたからこそ得られる結果や効果が必要よね。
教育を受けても受けなくても、結果がそんなに変わらないのであれば、その教育に意味は無いよね。
それなら、家でスプラ3してるわ(笑)
その教育の特色を明確にして、その教育を求める子どもに来てもらう。
誰でも人を選ばずに、その教育に子どもを呼びこむ必要もないと思うんよな。
教育も特化させていく。
少なくとも、全く勉強に興味ない子どもに教育を受けさせる意味は、子どもにとっても、大人にとっても無いと思うんよな。
子どもは勉強に興味無いんやから、教育を受けようと思わないし、受けさせようとされれば苦痛になってしまう。
親にとっても、子どもは勉強に興味ないんやから、無理やり学校に行かそうとしなければならない。
先生にとってはもっと大変で、勉強に興味無い子どもに、興味を持たせないといけない。
元々、勉強に興味ある子どもが、勉強内容を深めるための時間を犠牲にして・・・
勉強に興味無い子どもに、教育を受けさせようとすることほど、みんなが不幸になることはないと思うんよな。
子どもが興味を持ち始めた時に、興味あることを思う存分やらせてあげられることが教育においては大事だと思うんよな。
教育は、
「子どもの0→1を作るところ」
ではなく、
「1→10するところ」
とか、
「10→100にするところ」
だと思う。
ここにも書いたけど、子どもを塾に通わせるなら、
「塾に行ってない時点からすでに、知的好奇心があったり、勉強をしたりしている」
っていう状態が必要だと思うんよね。
自学自習の精神がある程度身に付いてから、本人の意思も合わさって、塾に通わせる。
そうすると、塾でも勉強をするし、より高度な授業をしても、子どもは食らいつける。
子ども自身にすでに「0→1」があるからこそ、その子どもに合った教育を提供すれば、その子どもの力が引き出される。
まだ子どもに知的好奇心が無いのであれば、その子どもに必要なのは教育ではなく「遊び」だと思う。
遊んで、色んなことを試してみたり、興味持って色んなことに触れてみることで、
「自分が何に興味があるのか」
が少しずつ分かってくる。
その知的好奇心を
「もっと深めたい!」
「もっと広めたい!」
って思った時にこそ教育が刺さる可能性が出てくる。
つまり、教育とは、
「子どもの知的好奇心を拡張する場所」
であって、
「子どもの知的好奇心を発掘する場所」
じゃない。
何に興味があるか分からん状態で、子どもの知的好奇心を発掘するとなれば、選択肢が多すぎて、教育では対応しきれない。
何に興味があるか分かってるからこそ、子ども自身も、
「あそこの学校に行きたい」
って言える。
何に興味があるか分かってるからこそ、先生も勉強を教えやすいし、親も子どもの背中を押しやすい。
子どもが遊び、自分の興味の幅を広げていく。
その興味の中で、
「これはおもしろい!もっとやりたい!」
ってなったら、子どもは勝手に知的好奇心を高めて、探究を始める。
ある程度は、親も子どもに教えられることはあると思うんよ。
でも、親は教育の専門家ではないから、ある程度までしか教えられない。
そこで初めて、
「教育を受ける」
っていう選択肢が出てくる。
子どもの知的好奇心の芽は、親が発芽させる。
とはいっても、ただ一緒に楽しく遊ぶだけでいい(笑)
遊びながら、子どもの興味の幅が広がっていき、知的好奇心も強くなっていく。
その過程で、子どもの見ている世界も広がっていくんよ。
最初は、目の前のおもしろいことに飛びついているだけだった。
それが、興味の赴くままに勉強をしていって、この世界、この社会のことを少しずつ知っていく。
子どもの知識が増えて、子どもの視野も広がっていく。
子どもが世界を認識するには、知識が必要です。
例えば、
「アクチュアリーになりたい」
って思うためには、
「アクチュアリーとはどんなものか?」
っていう知識が必要だよね。
知識が無かったら、アクチュアリーという世界の存在に気付けないし、興味も持てない。
知識があって初めて、存在に気付き、興味を持つ可能性が出てくる。
子どもが興味の赴くままに知識を増やしていくことで、考えられる幅、意識の範囲が広がっていく。
それでも勉強を続けて、意識を広げていった先に、
「国家のため」
っていうのが見えてくる。
そこがゴールじゃないよ。
「国家のため」
っていうのは、言い換えれば、
「日本のため」
でしょ?
「日本のために仕事をしているんです」
って言われたらさ、
「日本人は助けるけど、日本人以外の人はどうなってもいい、っていうこと?」
ってなるやんか。
誰を助けるのかを国籍で区別するなら、それは差別にもなりかねないよね。
だから、
「日本のため」
であるならば、それは自然と、
「日本以外の人」
も視野に入ってくるはず。
ただ、視野を広げるには、知識が必要です。
知識が追い付いていない人に、
「世界中の人のために仕事をしなさいよ」
って言っても、あんまりピンとこないんよな。
知識に乏しい子どもに、
「将来、日本のために働くために勉強をするんだよ」
って言っても、その世界が認識できないし、ピンと来ない。
だから、それはモチベーションにはならない。
最初は、
「自分のための勉強」
でいい。
将来の自分じゃなくて、現在の自分な。
最初は、今の自分がうきうき、ワクワク、楽しくなっちゃうような勉強から始める。
だから、
「遊ぶ」
んです。
とにかく遊んで、楽しむ。
その楽しみの中に、
「子どもが探究したいもの」
が含まれてる。
僕ら親は、子どもの中から「子どもが探究したいもの」を見つけるお手伝いをする。
子ども自身が
「これをもっとやってみたい」
ってリクエストしてくれることもある。
そうなって初めて、
「子どもが教育を受ける」
っていう選択肢が視野に入ってくる。
そうやって考えていくと、
「小学校での教育は、どれほどの子どもが必要なのか・・・?」
っていう疑問もあるんよな。
勉強よりも、遊びたい盛りだろうに。
早熟な子どもや、ギフテッドと言われるような能力が高い子どもは小学生のうちから教育を受けるのは全然あり。
子どもに合わせて、
いつから
どんな教育を受けるのか
を選択できるといいんじゃないかと思う。
教育は教育で、理想とする子ども像があると思うから、それは明確にしておく。
そしたら、その理想・理念に合った子どもが教育を受けに来る。
あまり社会に受け容れられない理想、理念を掲げた教育は、子どもが来ないから自然と淘汰されていく。
そうやって、教育も子どもによって洗練されていくはず。
今、不登校児がものすごい勢いで増えてるけど、それも教育の自然淘汰を促していってるように思える。
いくら学校が変わらないと言っても、子どもが行かなくなるんだったら、変わらざるを得ないよね。
大人の力で変えられない学校も、子どもの力でなら変えられるんじゃないかな。
学校教育については、こんなことも言ってます
良かったら読んでみて!
学校教育のこと、不登校のことしか書いてないんか(笑)