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べートーヴェン

べートーヴェン

『栄光』214号、昭和28(1953)年6月24日発行

 この間私は独逸(ドイツ)映画、題名エロイカ、製作はウィンフィルム会社で、ストーリーは楽聖ベートーヴェンの中年から晩年に至る間の経路を描いたもので、近来の傑作である。始めから終りまで息もつげない程で、主人公に扮(ふん)する俳優もそれらしく素晴しい演技であった。しかも聾耳(つんぼ)になってからの悲痛な場面は、胸の迫る思いであった。ところがそれを観ながら私はつくづく感じた事は、この聾耳の原因である。これは頭に溜っている毒素が、職業柄長い聞耳に神経を集中するため、鼓膜と聴感神経との間に、毒素が少しずつ溜り固まったものであって、浄霊によれば訳なく治る性質のものである。
 ところが惜しいかな、年代の大きなズレと、国の異(ちが)いさのため、せっかくの大芸術家がこれからという時、人生の幕を閉じたのであるから残念である。もっと年を貸したなら、どんな名作が出来たか分らないと思うと、返す返すも遺憾である。もちろん今後も世界的偉人や名人が半途にして、この世を去る場合もあるであろうから、我救世教の神霊医術を一日も早く全世界に知らしたいと切に思うのである。

霊と体

霊と体

『世界救世教奇蹟集』昭和28(1953)年9月10日発行

 以上のごとく、一切万有は霊主体従が原則であるとしたら、本著にある幾多の奇蹟もこの理が分れば敢(あ)えて不思議はないのである。例えば危機に際し間髪を容れず難を免れたり、高所から墜ちても疵(きず)一つ受けず助かったり、博士や大病院から見放された重難症患者でも、何なく治るという事実である。しかしながらこれを充分徹底するには、どうしても宗教的解説が必要であるから、読者はそのつもりで読まれたいのである。
 それについてまず知っておかねばならない事は、霊界と現界との関係である。というのは人間という者は肉体の着衣と同様、霊も霊衣(アウル)を着ており、霊衣とは一種のエーテルであって、これは霊から放射される光で朦朧(もうろう)体ではあるが、肉眼で見る人もある。そうして霊衣なるものは天気と同様、常に晴れたり曇ったりしている。すなわち善を思い善を行えば晴れ悪を思い悪を行えば曇るのである。ゆえに正しい神を信ずれば光を受けて曇りはそれだけ消されるが、邪神を拝めば反って曇りが増すのである。ところが普通人は霊的智識がないため神とさえいえばことごとく正神と思うが、これが大変な誤りで、実は邪神の方が多いのである。その証拠には先祖代々熱烈な信仰を続けているにかかわらず、不幸の絶えないという家をよく見かけるが、これは拝む本尊が邪神かまたは弱神であるからである。ゆえに正神に帰依し、人を救い善徳を積めば積む程、光は増すから霊衣も厚くなる。この厚さは普通人は一寸くらいだが、善徳者になると五寸から一尺くらいに及び、神格を得た高徳者になると数十尺から数哩に及ぶ者さえある。大宗教家などは数国もしくは数民族にも及ぶもので、釈迦、キリストのごときはこの種の人である。ところが救世主となると人類全体を光に包むという実に驚くべき威力であるが、しかし今日まで救世主はいまだ世界に現われた事のないのは歴史が示している。以上によっても分るごとく、霊衣はその人の心掛次第で厚くもなり薄くもなるので、人間はこの事を信じて大いに善徳を積むべきである。例えば汽車自動車などが衝突しても、霊衣が厚ければ車の霊は霊衣につかえて当らないから助かるが、霊衣が薄かったり無である場合、死んだり重傷者となるのであるから、本教信者が災害を免れるのもこの理によるのである。
 次に運不運も同様であって、この理もザッとかいてみるが、人間の体は現界に属し、霊は霊界に属しており、これが現界、霊界の組織である。そうして霊界は大別して上中下三段階になっており、一段階が六十段で、それがまた二十段ずつに分れ、総計百八十段になっている。もちろん下段は地獄界、中段は中有界といい、現界と同程度の世界であり、上段が天国になっている。そうして一般人のほとんどは中段に位し、その人の善悪によって上にも昇れば下にも降る。すなわち善を行えば天国に上り、悪を行えば地獄に堕ちるのである。しかも現界と異(ちが)って霊界は至公至平にして、いささかの依怙(えこ)もないから悪人には都合が悪いが、この事が信じられる人にして、真の幸福者たり得るのである。もちろん地獄界は嫉妬(しっと)、怨恨(えんこん)、嫉(ねた)み、憎み、貧窮等仏教でいう貪瞋痴(どんしんち)が渦巻いており、下段に降る程濃厚となり、最下段は根底の国、または暗黒無明、極寒地獄、煉獄ともいわれている。といっても死後ばかりではなく、体は現界にある以上、霊そのままが移写されるから、七転八倒の苦しみの末、一家心中まで企(くわだ)てる者のあるのは、常に新聞に出ている通りで、人間の運不運は、霊界の地位いかんによるのである。もちろんその因は善悪の因果律による以上、悪人程愚かな者はない訳である。事実悪で出世をしても一時的で、いつかは必ず転落するのは前記のごとく霊界における籍が地獄にあるからである。それに引替え現在いかに不運であっても、その人の善行次第で、霊界の地位が向上する結果、いつかは幸運者となるのは、厳として冒すべからざる神律である。従ってこの理を諭(おし)えるのが宗教本来の使命であるにかかわらず、今日まではなはだ徹底しなかったのは経典と説教を主とし、肝腎な実力すなわち奇蹟が伴わなかったからである。
 ところがいよいよ時節到来、主神は今や絶対力を発揮され給い、本教を機関として驚くべき奇蹟を現わし、人類の迷妄を覚ますのであるから、いかなる人といえども信ぜざるを得ないであろう。

(注)
貪瞋痴(とんじんち)
仏語。むさぼりと怒りと無知。貪欲と瞋恚(しんい)と愚痴。三毒。

霊憑りに就て

霊憑りに就て

『栄光』133号、昭和26(1951)年12月5日発行

 霊憑りの危険な事は、常に私は注意しているにかかわらず、今もって止めない人があるが、これは断然やめるべきである。それについてなぜ悪いかを詳しく説明してみるが、霊憑りの八、九割までは狐霊であって、狐霊の九割九分までは邪霊であるから、人を瞞(だま)す事など本能的であり、人間に悪い事をさせるのは何とも思わないどころか、むしろ面白くて仕様がないのである。という訳で彼らの中でも高級な奴になると、憑依する場合何々神だとか、何々如来、菩薩、龍神などと言い、本人にもそう思わせると共に、人にも信じさせようとするので、御本人もすっかりその気になってしまい、生神様扱いにされて多くの人から敬われ、贅沢三昧に耽(ふけ)るのがよくあり、これが狐霊の本性である。そうして狐霊中でも劫(ごう)を経た奴になると、相当神通力をもっており、人間に憑依するやその人の思っている事は何でも分るから、それに合わせて色々な企らみをする。例えばその人が神様のように人から尊敬されたいと思っていると、いつしか憑依してしまい、本人の思惑通りに取りかかる。自分は是(こ)れ是れの立派な神の再来だとか、最も多いのは天照大御神の御名を僭称(せんしょう)する事で、これは誰も知っているが、そうかと思うといとも巧妙に、この人はと思う人には自分との因縁を結びつけようとしたり、多少の奇蹟も見せるので、善男善女は一杯喰ってしまうのである。これは世間よくある話で、方々にある流行(はやり)神などは皆この類(たぐい)で、もちろんこういうのは一パシ腕のある狐霊で、世間の甘い人達はつい瞞されてしまう。また中には無暗矢鱈(むやみやたら)に金を欲しがる人があると、それを知る狐霊は憑依するや、悪智慧を働かせて、巧く金を掴めるようにするが、もちろん手段を択ばず式で、大抵は罪を犯させ、一時は巧くゆくが結局は失敗してしまい、その筋の御厄介になる者さえよくある。また女を得たい人間には巧妙にその女に接近させ、女の関心を得るよう甘い言葉や手段を用い、時には暴力を振う事さえあるのだからそのよう危ない話である。そのように元々動物霊であるから、善も悪もない。ただ人間を道具にして自由自在に躍らせればいいので他愛ないものである。このように狐の方が人間より一枚上になるから、万物の霊長様も情ない話で、これが分ったなら人間様も余り威張れたものではあるまい。その他狐霊の外狸霊、龍神、悪質天狗等も憑って人間を誑(たぶら)かすが、その中でも邪悪の龍神が最も恐るべきものである。本来龍神なるものは、並々ならぬ強い力と、そうして智慧をもっているから、人間を自由にし場合によっては人に傷害を与えたり、命をとる事など朝飯前である。昨年の事件の時なども、多くの悪龍が活躍した事は以前もかいたが、そういう場合血も涙もない残虐極まるものである。しかも狐霊などとは異(ちが)い、龍神は智能的で、悪智慧が働くから思想的にも人間を自由にする。何々主義などといって悪質犯罪を平気でやらせ、社会に害毒を流すのも原因の多くはそれである。そこへゆくと狸霊や天狗の霊は大した事もないが、ただ天狗は霊力が強いのと、学問のあるのが多いので、彼らの中の野心家はそういう人間を掴えて躍らせ、世間に名声を博し、出世をさせて大いに威張りたがる。そのような訳で天狗の霊憑りは、昔から禅僧、学者、宗教の創立者などに多く、永続きする者は至って少ないのである。以上憑霊に関しての色々な事をかいたが、ここで充分知って置かねばならないのは、単に邪神といっても個性的に悪い事をするのではない、その奥に邪神を操っている頭目があって、こいつこそ最も恐るべき存在である。この頭目の力には大抵な神も歯が立たないくらいである。ところがこの邪神の頭目は陰に陽に絶えず吾々の仕事を妨害している。特に本教は邪神にとっては一大脅威であるから、彼らの方でも頭目中の頭目が対抗しているのでこれこそ正邪の大戦いである。
 ところがここに注意すべき重要事がある。それは本教信者は自分は御守護が厚いから大丈夫だ、邪神など容易には憑れるものではないと安心しているその油断である。この考え方が隙を与える事になり、邪神は得たり畏(かしこ)しと憑依してしまう。しかも小乗信仰者で熱心であればある程憑り易いから始末が悪い。いつも私は小乗信仰を戒めているのはそういう訳だからである。何しろ邪神が憑るや小乗善にもっともらしい理屈をつけて押し拡げ、巧く瞞すので大抵な人はそれを善と信じ切って一生懸命になるのだが、何しろ根本が間違っている以上、やればやる程結果がよくないから焦りが出る。そうなると人の忠告など耳へも入らず、ますます深味に嵌(はま)ってしまい、二進(にっち)も三進(さっち)もゆかなくなって失敗する人がよくあるが、こういう人も早いうち目が醒めればいいが、そうでないと何が何だか分らなくなってしまい、御蔭を落す事になるから小乗善のいかに恐ろしいかが分るであろう。小乗善は大乗の悪なりと私が常にいうのは左の事である。またこの点一番よく分るのは小乗善の人は必ず常軌を逸する事で、これが奴らの狙いどころであるから、何事も常識眼に照らして判断すれば間違いないので、全く邪神の苦手は常識であるから、私は常に常識を重んぜよというのである。この例は世間に有りすぎる程有る。よく奇矯な言動を可いとする信仰や、同様の主義思想、神憑り宗教などもその類であって、いずれも問題を起し、世間を騒がす事などよく見聞するところである。
 そうして右の理は霊的にみてもよく分る。何しろ狐狸等は動物霊であるから、人間より以下である。従ってこれを拝んでいると動物の居所は地上であるから、人間は地の下になり、霊界では畜生道に堕ちている訳で、霊界の事は一切現界に映るから、その人は地獄に堕ちているのである。世間よく稲荷の信者などは、必ずと言いたい程不幸な運命に陥ってしまうのは、右の理によるからである。もちろん霊憑りもそうであって、動物の入れ物になる以上、ヤハリ畜生道に堕ち、不運な境遇になってしまうのである。しかしながら同じ狐霊でも、全部が全部悪い訳ではない。稀には好い狐もある。それらは改心した狐であって白狐(びゃっこ)である。白狐はいずれも産土(うぶすな)神の下僕となり、神の御用に励しんでおり、仲々役に立つものである。というのは狐は霊的には種々な特徴をもっており悪もそうだが善の場合も仲々力があり、好い働きをするものである。しかし神憑りにも除外例がある。それは祖霊または正守護神が重要な事を人間に知らす場合、一時的に憑る事がある。これはホンの僅かの時間と必要だけの言葉で、決して余計な事は言わないものである。ここで序(ついで)だから正か邪かの判別法を教えるが、神様に関係のある正しい言葉には無駄は決してない。物事の急所を簡単明瞭にお知らせなさるものである。故に邪霊であれば必ず余計な事を喋舌(しゃべ)りたがるもので、よくあるノベツ幕なし立て続けに喋舌るなどは、狐霊と思えば間違いない。しかしこういう場合もある。それは正守護神が言葉で知らせようとする場合、狐霊は人間に憑る事も、喋舌る事も巧いので、狐霊を使う事もあるがそういう場合必要以外の事を喋舌り、地金を現わすから大いに注意すべきである。