注意
注意
『栄光』182号、昭和27(1952)年11月12日発行
浄霊によって、奇蹟的に助かった場合、それを見た医師は驚いて首を傾げ、溜息
を吐くと共に、どうして治ったかを訊く事がよくあるが、それに対しありのまま正直に
言わない信者もあるようだが、これは大変な誤りで神様を冒涜(ぼうとく)するもので
ある。信者としては力の限り多数の病人を救うのが目的である以上、本教浄霊の素
晴しい治病効果を、出来るだけ多くの人に知らせるのが御神意に叶(かな)うのであ
る。それには何よりも医師に分らせる事程効果の大きいものはあるまい。ところがそ
の事が徹底的に分っていないため、秘密にしたがるのであろうが、これはもっての外
の間違いである。せっかく神様が大きな御蔭を下さる以上、それをお医者さんに分ら
せる事が一等である。お医者さんの大部分が判れば、これだけで病気の問題は解
決するのであるから、この点よくよく心に停めて今後は精々その方針で進まれん事
である。
治病に於ける観音力に就て
治病に於ける観音力に就て
『東方の光』8号、昭和10(1935)年10月21日発行
肺結核、喘息、痔瘻、癌腫、中風、梅毒、近眼等、従来難治とされていた疾患が、
僅少なる日数を以て治癒されるという驚くべき奇蹟が、日々顕(あら)われつつある
実際を、現代人の少年期から、科学一点張りで、叩き込まれた頭脳へ、理解させる
程困難な事は、恐らくはあるまい。それは、未開人に向って、空気の説明をするより
も、なお至難であろう。
その時代の文化そのものは一つの定型を成している。その定型のレベルから、数
段をも跳躍したアルモノが生れた時、識者達はそれを、今までのレベルの物指で測
ろうとするのであるが、無論その物指(ものさし)には合わない。そうした時に決り切
ってその、アルモノを罵詈(ばり)非難するのも、一つの人的定型である。ただ、その
中に、その時代の文化に満足出来ないで、より高跳的、破型的のアルモノの出ずる
のを期待翹望(ぎょうぼう)するところの、少数者もまた、必ずあるものであって、この
人達が、新生のアルモノを使命の様に高揚発展させてくれるのも不思議である。い
わゆる、先覚者なるものがそれである。
毎号本紙には観音力による多数の治病実績を掲載しているが実は掲載し切れな
い程の多数の奇蹟が日々続出しつゝあるのである。故に本紙に掲載するのはホン
の一部でしかないのである。
しかも、第三者から見て各記事が誇大とされ勝ちであるが、これはむしろ反対であ
って、却て、実際のままを書けば、誇大にさるるのを虞(おそ)れて、余程控え目にし
ているのである。
そのごとく、難病治療者達が、自己の体験を第三者に語る時、そんな奇蹟がある
ものかと、信じてくれないと言う事の嘆声は日々聞くところであって、滑稽なのは、数
年来の痼疾(こしつ)が、短時日で治療した為、家族の者さえ信じないという、嗤(わ
ら)えない事実も時々あるのである。それが為に、掲載者の宿所番地まで、詳細に
記入し直接本人に訊(き)かれるよう便してある訳である。
この様な治病の大偉力が新しく発生されたと言う事は誰よりもまず医師諸君が怪し
まなければならないはずである。その結果徹底的に検討すべく吾々に訪ねて来なけ
ればならないと思うのである。何となれば医学そのものゝ目的は人類から病気を無く
するそれより以外には無いはずであるから。
又医学以外で治った実例、記事などを見る人はよくいうのである。それは、治った
のだけを発表するのであって、治らないのは発表しないのであると。これは無理のな
い見方で確にそういうのも、世間には相当あるであろう事も知っている。しかし正直
に発表するが、吾々に来る患者は、種々の療法で治らなかった者が、ほとんど大部
分である。それにも拘わらず、八十パーセンテージ以上の治病率を挙げている。一
点の誇張もない事実である。
かくのごとき治病成績は世界のどこにも歴史にも絶対無いであろうが、事実は歪
める事は出来ない。そうして医師諸君に吾々の冀(こいねが)うのは、吾々のこの報
告を一まず受入れて事実そのものを突き止めらるの労を惜まれない事である。そう
して我門に足を運んで参観されてもいいがなるべくは習得されて欲しいのである。そ
れも専門家であれば、一週間位で済むしその結果、従来の西洋医学と比較してくれ
たならその治病効果のいかに優れるかにおいて驚歎する事は断言し得るのである。
今まで一ケ月の治病日数を要したものが三日で治るであろう。
なお且つ諸君は、病理解剖等、専門的な技能を有されているから、それに観音治
病力を併有せらるるにおいては、諺(ことわざ)に言う鬼に金棒である。しかしなが
ら、観音治病力などと言ったら、その言葉だけで、迷信として笑殺してしまうかも知れ
ないが、その点である、百の学理も、一の事実には如(し)かないと言う。その事実を
冷静に凝視されたいのである。全病患者は、病患の説明をされるよりも、治癒される
事をいかに希望しているかを充分知られているはずである。もし、事実に眼を蔽(お
お)い、あるいは事実を知っても雲烟過眼視(うんえんかがんし)して、相変らず、科
学一点張りで進むという事は、文化人としての怠慢ではなかろうか。
又今他の新興宗教においても、そういえるのである。無医薬的な治病の、奇蹟的
成績を旺んに発表している。無論、これらも進んで研究されなければならないのは、
言うまでもない事である。医療を棄てて、多くの人が、それら宗教へ趨(はし)ると言う
のは、医療以上の、アルモノがあるからではないか、そういう人達を目して、一概に
迷信であると片付けて平然たるは、余りに独断過ぎて、いずれが迷信しているか
は、区別を付けられないであろうと思う。
しかるに西洋で、医学上の新発見をしたという報告は、最大級の関心を持つのが
常のようであるがそれら多くは、基礎医学に属するもので、実際の治病法発見は、
まことに少ないのである。のみならず、今日までの実績に徴すれば、最初発見され
た薬剤も治療法も、時日の経過によって、そのほとんどが、発見当時の、救世主的
待遇がいつしか稀薄になってゆくという事実を、余りにも多くを、見せつけられてい
る。彼の六〇六号のごとき、又ラジュウムのごときでさえ、東郷大将の喉頭癌が、三
十五万円のラジュウムを使用してもついに治らなかったと言う事実は、余りにも雄弁
に無効果を証明している。しかるにも関わらず、手近な、日本においての治癒成績
は、いかに顕著であろうとも、全然触れようともしないで、否定してしまっているので
ある。ただしかし、それは、科学的でないという、それだけの理由でしかないのであ
る。
人類の病患が科学以外には治療の方法が無いと断定されてる時代の人類こそい
かに憐むべきであろうか、何となれば科学を幾層倍超越した素晴らしい治病法が発
生されたとしてもそれは一部の者より外、全般がその恩恵に浴する事が出来ないと
いう不合理である。
今日の文明が、協力して進歩して来た事ははっきりと歴史が物語っている。ただし
かし、今日までは学問の上にのみ、それが多かった事で、言い換れば西洋的なもの
に限られていた事であった、しかるに近時、西洋人も目覚めて来た、日本研究や、
仏教研究等がそれである。又一部の医家が、漢法〔方〕灸治等の研究に手を染めて
来たのも、褒むべき事である。
故に私は提唱する。医学は、人類から、病患を絶滅するという、最高目標を建てて
る以上、社会のあらゆるものの治病成果を、調査検討すると倶(とも)に科学の垣根
を撤廃して、宗教的でも、霊的でも、精神的でもいゝから、事実を主に、学理を従とし
て、大乗的に進まれたい事である。そして、真に治る、短期に奏効する、再発しな
い、大医学を、我日本から、創見〔建〕しようではないか。
この大事業は当事者のみでは足りない、政府も科学のみに偏せずして、事実を調
査検討、真に人類を救うに足るべきものが在ったら、進んで援助されたい事である。
政府者のある人々が、西洋医学を絶対として他は何物も排斥するという態度も考慮
されたいのである、ここで申(かさ)ねて言う、文明は協力される事によってのみ発達
するという原則を。
ともあれ、科学文明の一大転換期が来つゝある様に、医療の一大転換期も、迫り
来たのは、争えない事実である。何となれば、現在の科学からみて、夢想だも出来
ない程の、大治病力が、既に発生されて、日々その奇蹟が加速度的に増加しつゝあ
るという、その事実が証明して余りあるであろう。
停止する事を知らない人類の進歩から言えば、少しも怪しむに足らない発生事で
あるが、科学に固着して、何物をも見ないという、頑迷的態度こそ、いかに文化の進
歩と人類の福祉とを、阻害する行為であるかに、目醒める事である。そうでないと、
誰かが言った、文化的野蛮人の言葉を、消す由(よし)がないであろう。
地上天国を造る
地上天国を造る
『栄光』108号、昭和26(1951)年6月13日発行
左の論文は、前月二十二日、日比谷公会堂において本教講演会開催の砌(みぎ
り)、何しろ録音やハワイヘラルド紙等に掲載される予定なので、慎重を期し、前もっ
てかいた原稿を持参したところ、さて私の時間となり演壇に登るや、自然に言葉が湧
いて来るので、いかんともし難く、そのまま原稿抜きで喋舌(しゃべ)ってしまったので
ある。従って、この原稿は用がなくなったけれども捨てるに忍びずここに掲載する事
としたのである。
× × ×
私は、メシヤ教教主岡田茂吉であります。これから約三十分間講演を致しますが、
前もって断っておきたい事は、私の話は今日まで誰も言わなかった事ばかりなので
あります。というのは、今までの宗教家や偉い人達が、言ったり、書いたりした事と、
同じような話であるとしたら、あえて私が喋舌る必要はないからであります。そのよう
な訳で、私の喋舌る内容はほとんど今までの教や説とは変っている。少しばかりの
変り方ではない。大いに変っているのであります。ところが実をいうと、いささかも変
っていない、当り前の事なのであります。そういうとチト変でありますが、今までの世
の中の色々な事は、私からみれば、変っている事が非常に多い。それが誰にも気が
付かないだけの事で、その変った大勢の頭で、変っていない一人の私を見るので、
私の方が変っているように思えるのであります。何だかヤヤコシイ言い方であります
が、これからお話するに従って、なるほどと思わない訳にはゆかないでありましょう。
さて前置はこのくらいにしておいて、いよいよ本論に取掛りますが、まず何人も現
在の世界は、進歩した文明世界と思っているでありましょう。ところが私からみれば、
文明が半分、野蛮が半分くらいにしか見えないのであります。これも私の変っている
点かも知れません。
では一体文明世界とは、どのような世界をいうのでありましょうか。私が思うのは、
まず第一人間生命の安全確保であります。この生命の安全がない限り、文明とは言
えないと思います。これを具体的に言うならば、戦争と病気のない世界、これが本当
の文明世界であります。なぜなれば、この二つの災いが、絶えず人間の生命を脅か
しているからであります。というと、なるほどそういう結構な世界が出来ればいいが、
そんな夢のような話は、馬鹿馬鹿しくて信じられないというでしょう。ところが私は出
来ると断言するのであります。するとまた言うでしょう。そりゃ何千年か、何万年先な
ら出来るか知れないが、吾々の時代に出来るなんていう奴はマァー頭がどうかして
いるに違いない、とするでしょう。これも全く無理はないのであります。何しろ有史以
来何千年もの間、人類は苦しみ続けて来たので、これが人間社会の常態と思い込
んでしまって人生というものは、糾(あざな)える縄のごとく、苦楽交々(こもごも)到る
と聖人の言った通りだと思うでしょう。ところがそれどころではない。現実は苦しみの
方がずっと多いんだから厄介です。お釈迦さんでさえ「この娑婆(しゃば)は厭離穢土
(えんりえど)とか、火宅(かたく)だとか言って、生病老死の四苦は免れない」と仰言
(おっしゃ)る。だから四苦が倍になるとすれば、四苦八苦という訳でありましょう。
こう説いて来ると、この苦しみの原因は何かというと、もちろん半分の野蛮性にあ
ると言えましょう。だからこの野蛮性を取り除いてしまわない限り、好い世の中は来
ないに決っている。しかし、実際上仲々一ペンには到底出来る訳がないから、つまり
野蛮より文明の方が少しずつでも多くなれば、いつか真の文明世界が出来上るので
あります。ところが今まで人類はそこまで気が付かなかった。それは文明の上面(う
わつら)ばかりをみて有難がっていたからで、いわば立派な身装(みなり)だけを感心
していて、それに包まれている垢(あか)だらけの、臭気芬々(ふんぷん)たる肉体に
気付かなかったのであります。全く外形に幻惑されたので、いわば、文明の迷信に
かかっていたようなものであります。それを知らない迷信文明者は、よく吾々の方
を、迷信呼ばわりをするのでありますから、どちらが迷信か迷信競べをしてみようと
思うので、勝った方が正信という事になりましょう。ところがたとえ、外形文化にでも
浴す事が出来たら、幸福には違いないが、その恩恵に与(あずか)る者はまことに少
ない。どこの国でも一握りの人達だけで、大多数は相変らず不安に怯(おび)え、苦
悩のドン底に喘(あえ)いでいる有様であります。
これらの現実を見る時、最初の目的である幸福は行方不明になってしまって、どこ
にも見当らないのであります。最初の考えであった物質文明を進歩させさえすれば、
幸福世界が実現するように思って、一生懸命に努力して来た事の予想は、見事裏切
られたのであります。それでもまだ気が付かない人類は、科学文明の虜(とりこ)とな
ってしまい、相変らず間違った道に突進しつつあるのであります。なるほど科学文明
の進歩は、仮に、百年前に死んで、墓の下で眠っている人を揺り起して、今の世の
中を見せたら、吃驚(びっくり)仰天気絶してしまうでしょう。もっとも、死人が気絶して
も元々だからいいようなものの、とにかく一昼夜も掛らないで何千哩(マイル)先のア
メリカへ寝ながら飛んでゆけたり、ここで喋舌(しゃべ)っている私の声が、地球のど
こにいても聞えるし、一瞬にして何百万の人間を屠(ほふ)る原子爆弾も出来たが、
これは平和な道具に使えば、指の頭くらいのもので、汽車や自動車を幾日も走らせ
る事が出来るという事であります。このように驚く程便利になり、立派になっただけを
みたら、もちろん物質文化の進歩に魅了せらるるのも無理はないが、それにただ感
心しているだけでは何にもならない。大衆がその恩恵に浴してこそ価値があるので
あります。ところがどうでしょう、大多数は戦争の恐怖、食糧の不安、病気の氾濫と
いう、いわゆる人類の三大苦である飢病戦に、遺憾なく悩まされ通しではありません
か。これでは最大多数の最大幸福どころではなく、最大多数の最大不幸でありましょ
う。
まず手近なところで、日本の現状をみてみましょう。ヤレ結核、ヤレ伝染病、一家
心中、自殺、人殺、兇悪犯罪、青少年犯罪の激増、強窃盗、涜職(とくしょく)、疑獄、
脱税等々、とても一口では言えない程忌わしい事ばかりであります。全く地獄宛(さな
が)らの世界と言えましょう。この原因は最初に述べたごとく文明の内面に野蛮性が
多分に残っているからであります。そこでこの迷蒙を醒まさせるべく、神様は私を選
んで、この大任を御委せになったのであります。言い換えれば、今までの人類が歩
んで来た幸福と思っていた道が、何ぞ知らん地獄の道であったのであります。
そうして私は今文明の創造という本をかいておりますが、これは今言った通り、今
までの文明は本当の文明ではない、片輪の文明であるから、何程進歩したとて幸福
は得られない以上、現在までに進歩した物質文明に魂を入れて、新しい本当の文明
を創造すべくそのプランを示すのであります。つまり悪の文明を善の文明に置き換え
る事で、地上天国の設計書とも言うべきものであります。これが出来上った上は、英
文に訳して全世界の大学は固(もと)より、学界、著名人等に出来るだけ広く配布す
ると共に、ノーベル賞審査委員会へも出す積りであります。しかしながら同審査委員
も、既成文化の権威である以上、余りに進歩した私の説は、容易に受入れ難いであ
りましょうが、絶対の真理である以上、結局は理解される事となりましょう。としたら世
界的一大センセーションを捲き起すのはもちろん、現代文明は百八十度の転換とな
り、全人類待望の理想世界はここに実現の順序となるでありましょう。これはもちろ
ん神様の大経綸であり、空前の大事業でありますが、成功する事は一点の疑いない
事を信ずるのであります。皆さん、私はこんなドエライ抱負を申しましたが、もしこれ
が単なる大言壮語に終るとすれば、私という者は大法螺(おおぼら)吹きの大山師
で、怪(け)しからん奴と指弾され、葬り去られるでありましょう。あるいは松沢病院行
となるかも知れません。だとしたらそんな馬鹿げた自殺的行為は、私は真平(まっぴ
ら)御免であります。
最後に一言いいたい事は、キリストは「天国は近づけり」といい、釈尊は「ミロクの
世が来る」と予言されました。しかしこの二大聖者は、御自身が天国を造るとはいわ
れなかった。ところが大胆不敵にも、それを私は作ると宣言するのであります。しか
しこれは驚くには当らない。何となれば、キリストも釈尊も、実現性のない予言をする
はずがないからで、もしそうだとしたら、予言ではなく、虚言であり、嘘吐きでありま
す。全世界何億の信者に仰がれている二大聖者が、嘘吐きのはずはありますまい。
また各宗教の開祖も、同様な事をいわれた人が幾人もありますから、全世界各宗の
信者は、開祖を信ずると同様の意味において、私が現在実行しつうある天国建設の
大経綸も、信ずべきが当然と思うのであります。これを一言にして言えば、各聖者の
予言を如実に裏付けするのが、私の使命なのであります。
以上によってみても、我救世教は宗教ではないのであります。はなはだ申し難い事
ですが、宗教よりもずっと大きな救いの業である事はお判りになったでしょう。一言に
していえば、全人類を苦悩から脱却させ、歓喜の生活に導くのであります。真の文明
とはどういうものであるかを教えると共に病貧争絶無の地上天国建設の指針を与え
るのであります。
(注)
松沢病院、東京都世田谷区にある都立精神病院。