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「夢の中で夢を見る夢を見た。さながらインセプションのワンシーンのような。僕は自宅のベッドで目覚めた。なんだ、バイクでラウンドワンになんか行ってなかったんだ、などと思いながら。バイクの免許どころか、車の免許さえ持ってないしなあ、とも思いながら。目覚めた部屋の中は不気味な暗さで、現在の時間が全く不明であった。少なくとも昼ではないことは確かだったが。大事なのは、夜なのか、深夜なのか、といった違いだった。カーテンの隙間から青色のライトと赤色のライトが交互に見えた。カーテンを開けると僕のアパートのちょうど真下に一台のパトカーが止まっていた。僕はよくわからないまま、そのまま冷蔵庫の扉を開けようとするも、自分の体がなかなかいうことを聞いてくれず、冷蔵庫にたどり着く前にその場で倒れこんでしまった。僕の携帯電話が鳴る。母親からの電話だった。何気ない会話だった。『今日は何したの?』という問いかけに僕は「何もしてないんだ」と答えた。『今日のことはもう忘れて、明日一緒にどこかに出かけましょう』。扉の外から同じセリフが反響して聞こえた。玄関の扉が開き、母親が入ってきて、そのまま今日の夕飯を作り始めた。不思議とつじつまが合ってきた。母親が北海道からわざわざ東京に現在きていて、明日は一緒に過ごすのだった、と。
というところで僕は目が覚めた。夢の中での部屋の目覚めと、現実世界の部屋の目覚めがまったく同じだったため、僕はひどく混乱した。僕が目覚めた部屋も同様に不気味なほど暗く、時間帯の判別がつかない。だけれど、僕のアパートの下にパトカーは止まってなければ、当然母親が東京にきているなんていうこともなかった。時刻は夜の7時で、僕はひどく腹が空いていた。そういえば、まだ何も食べていなかった。
こんなにも動かない1日は久しぶりだった。思い返せば、ここ5ヶ月くらいの間、僕はほぼ確実に外に出かけていた。というのも、日常的に外に出歩く用事があったからで、外に出歩くことにさしたる抵抗感もなく、ごく自然と、シャワーを浴び、服を着て、鏡の前で歯をむき出しにした。そういった用事がぱったり無くなった、今、まるで身ぐるみをはがされたかのように、本来の自分はこういうものだったのだな、と思い知らされるかのように、僕は一人、ベッドの上におり、スウェットを上下に着込み、缶コーヒーを飲む。変な時間に寝てしまったから、今日は当分寝られそうにないな、などと考えながら。
寝癖でひどい髪型に、スウェットのフードをかぶせ、裸足でスニーカーを履き、近くのローソンに行く。何も食べたいものは見つからなかった。お腹は空いているのだが、できあいのカツカレーやカルボナーラが食べたいわけではなかった。中華料理が食べたいな、とふと思ったので、すぐそこの踏切を越えて、左に曲がったところに大衆中華料理屋があることを思い出した。だけれど今の僕にはその踏切を越えることさえ億劫だった。渡っている最中に警告音が鳴ったら、急がされるのが億劫で、その場で足を止めてしまいそうな気さえした。つまりはそのぐらい無気力だったのだ。だから僕はチャーハンのおにぎりと、カップラーメンと、餃子を買って、584円を支払って、その場でお湯を入れて家に持ち帰った。まともに食べられたのはチャーハンのおにぎりくらいで、カップラーメンと餃子に関してはひどい出来だった。カップラーメンは、絵の具を溶かした水を飲まされているようなひどい味がしたし、餃子はダンボールを蒸した生地で具を巻いているのではないかとまで思う出来だった。僕は食事が不味かったときが一番不機嫌になりやすく、しばらく一人で怒っていた。
食事が終わって、またベッドに戻った。Youtubeでよくわからない動画を見た。在日黒人がどのくらいタクシー乗車を拒否されるかについての動画だった。最後まで見るのをやめ、何をしようか、と2分半途方にくれた。本を読んだり、映画を見たりすることも出来たが、特にしたいわけでもなかった。そういえば、最近何も書いていなかったな、ふと思った。書くのも悪くない、そう思って、僕はブログのマイページをクリックし、記事を書き始めた。よかった、今日はまだ土曜日だった、と思った。フォトエッセイだが、写真は何にしたら良いだろう?」




家を出ると、大体僕は帰れなさそうなことになる。

結果として帰れているからここにいるのだが、結果のことなどどうでもよく、過程の話をしよう。大事なのは結果じゃなくて、過程だ、とはよくいうものだから。(都合のいいフレーズだなと思う)


遠足は家に着くまでが、遠足。といった風に、幼稚園児以前のころからそのことに関して英才教育を受けてきた僕たちだけれど、そういう「帰宅学」といったものが、僕はずいぶんと苦手なまま成長してしまったようで、みんなが簡単に帰れるような路も、僕が歩こうものなら、まるで途中でページが抜けてしまったかのように、満足に帰ることができない。「どうしてそんなに帰るのが下手なんだ」と僕はかねがねいろんな大人に言われてきたのだが、そのたびに僕は首を振って「僕だって帰りたくなくて帰ってないわけじゃないんだ」と言うのだが、それでも大人たちは一向に僕の意見など聞く素振りも見せなかった。こんなに帰るのが下手な子どもは初めてだ、とでもいうような目で、僕を相手にしようともしなかった。

そうした不遇な少年時代を送ってきた僕が22歳になって、ニューヨークに旅行に行った時のことだった。六日間の旅行を終え、帰り道だった。ニューヨークからクリーブランドまでの約9時間のバスだったのだが、もちろん、僕を乗せたバスは残り約200kmを残した地点で突然故障した。


故障のしらせを聞いたのは深夜一時だったか、二時だったかそこらへんだった。遅い時間帯だったので、ずいぶん長い休憩時間だなあと思ってそこまで気にしなかったのだが、長時間停車していたのは、当然僕たちのためを思ってではなく、ドライバーの疲れを癒すためでもなく、単純にバスがぶっ壊れちまったからだった。

アナウンスが流れた。みんなまさかそんなことは考えてもいなかった。

「Sorry guys, Unfortunately this bus is broken. This bus won't work. We need to stop right here」

ここまでして、僕は帰れないのかと自分を呪った。第一に、こんなことが起こりうるのだろうか、と実際に起こっているにも関わらず思った。ドライバーに自分たちの現在地を聞くと、目的地まで約200kmとのことだった。大体車で二時間くらいの距離ではあるのだが、それはアメリカの縮尺でいったら大したことのないスケールなだけであって、実際のところ、僕らには車がないことにはどうしようもない距離だった。あたりは真っ暗だった。

ところが、これこそが不幸中の幸いというにふさわしい状況で、付近には、マクドナルドあり、ウォルマートあり、そして何より、僕たちが止まっているのはホテルの駐車場だった。ドライバー、必死のファインプレーだった。広大なアメリカの土地で立ち往生する環境の中で間違いなくベストな環境であった。でもだからといって、そのことに関してドライバーがどやついてきたら、僕は間違いなく彼をぶん殴り、そしてぶん殴り返されていたと思う。アーメン。


しょうがないので、僕はホテルに行き、wifiを使ってフェイスブックで軽い気持ちで今の現況を報告した。「メガバスがぶっ壊れて、こんなところで立ち往生しちまったよ。いつ帰れるかわかんねーわhaha ユノンセーン?」みたいなことを軽い気持ちで書いたような気がする。

僕がそんなことを世界中のオンラインの波に乗せたところで、バスが動き始めるわけもなく、ただひたすらにプスプス言いながら、二時間おきくらいに、おじいちゃんのウォーキングのようなそぶりで、10メートルくらいを走らせるに終始したのだった。走り出すわけがないとわかっているウォーキング中の車内にいるとき、僕は初めて無生物に対して可哀そうという感情を持った。


そんなこんなであっという間に、時間は朝になった。

信じられるだろうか、いくら帰れないがちな僕が乗っているからといって、到着時間が10時間押すなんてことが。

ところが、ひとつ変化があった。昨夜投稿した段階では誰も見ていなかったフェイスブックの投稿に反応が見られ始め、そのうちの一つに、そこまで迎えに行ってあげようか?といったコメントがあった。僕のホストマザーからだった。


この件があったからももちろんそうだが、僕は留学している間、ホストファミリーに対しては頭が上がらない思いで感謝していた。どうしてこんな言葉もしゃべられない22歳アジア人を家に置いておくことができるのだろうと僕は相対性理論以上に理解に苦しんでいた。だけれど、相対性理論がかの有名な一見単純な一つの公式で表せられるのと同様に、どうしてホストファミリーが僕に良くしてくれるのかも簡単にわかった。僕をキリスト教に改宗するためだった、というのはまったくの嘘で、単純に心から彼らがいい人で優しかったからだった。そして僕を不思議と結構好いてくれていたからだった。彼らはいろんなところに僕を連れて行ってくれて、いろんなおいしい料理を食べさせてくれて、いろんな経験をさせてくれた。今でもフェィスブックを通じて関わりが持てていることをとてもうれしく思う。


そういうわけで、結局ホストファザーのほうがはるばる片道二時間かけて迎えにきてくれて、ほかの乗客からの白い視線を浴びながらも、颯爽と帰ることができたのだった。


ふと、この話を急に書きたくなったから書いたのだが、今思い返しても正直やばい話だと思う。帰られない度合いが甚だしい。後から聞いた話だが、一応あの後バスは復活して、ほかの乗客も無事に帰ったみたいだが、みんな真っ先にシャワーを浴びたそうな浴びてないそうな。




あまり本を読まなくなった。
本を読んでいた時は、無性にいろんなことを書きたくなったので、何かしらの読むことと、書くことの関連性はあるのだと思う。
あまり本を読まなくなった、というと、ひどく悲観的な聞こえがするものだけれど、実際のところ、それはなにも間違っておらず、非常に危険な状態。加えて言うならば、映画もあまり見なくなったわけで、一時期の、映画、読書三昧のあの日々を送っていたのは本当に自分だったのだろうかと薄々怪しくなっている次第。
だとすれば、何をして過ごしているのかといえば、これもまたパッとしないもので、三度目のティーパックぐらい薄い程度で、いろんなことをしているので、特に言及できるほどのことがない。強いて言えば、服の買い物によく出かけるようになったかなあ、とも思うけれど、他人が買い物によく行くようになった、なんてことに世界中の誰が興味を持つだろう。それにしても欲しいニューバランスが一向に見つからずに5ヶ月くらい経ったなあ。
そう、月日が経つのが異常に早いということが書きたかったのだ。もう夕日を見ることも少なくなっていきそうだな。日の入りも恐ろしく早い。
周りでは就活の準備がだんだんと始まってきていて、留学先で仲良くなった友達は大体そういった時期に入っていく。僕なんか、周りの世代が就活をしている、という状況が今回で三度目なわけで、慣れっこなつもりだが、大変そうな感じを見ているのは結構辛い。あまり、人が変わる、というのを見るのは好きではない。
もとより僕は、一貫性を持っている人間が好きなのであって、周りの環境にフラフラしてしまったり、あっちいったりこっちいったり。信念が無いというのだろうか、簡単に道に迷ってしまう人よりかは、なんとかなる、とドンと構えている人の方が好感がもてる。自分の人生なのだから、そういうことって結構大事な気がする。そういう人奥さんに欲しい。(本当に)
もう少しちゃんと本を読んで自分と向き合う時間を作りたいなあとも思うのだけれどね。なんか、集中力が。1000文字リミットかかってるらしく、1000文字読んだら、それ以前になに書いてあったか忘れちゃうんですよね。映画で言ったら、「メメント」。うん、これが一番わかりやすい。そうそう、本は自分と向き合うために読むものだよ、本当に。なんか人にうんざりしたときとかに、夜にゆっくり、シャワー上がりに、コーヒー飲みながらソファに深く座って本を読んでいると、ストーリーうんぬんじゃなくて、その行為自体にすごく癒されるよね。そういう時間が必要なんだと思う。
だから、就活とかで、やばいな~、なんか自分おかしくなってるかも、ってときは本読んだらいいのかもね。「何者」は別に読まなくていいと思うけど。
夕日って結構見れる時間短いでしょ。期間もだけど。夕日きれいだな、って大体のひと思うと思う。大体のひとがポジティブな感情抱いてるあの瞬間のあの空間ってものすごい平和で幸せな状態なんじゃないかって思う。夕日が出てる間くらいは、ちょっと手を止めて息を落ち着けてみよう、みたいな。本を読むことと、夕日を見ることは結構近いような気がする。
これから、来年にかけて、結構な変化が起きてくるかもしれないけれど、落ち着くことを忘れずにいきましょう。


-とにかく最初に言うべきことは、この東京の暑さについてなのだと思う。この暑さについて語る以外に他に何を語れと言うのだろう。間違いなく、人の生きられる世界ではないが、とはいえ、クーラーをガンガンかけている店内も気持ちの悪い寒さで、これもまた生きられるような世界ではない。僕たちは、両極端の環境に挟まれていて、なんとも生きにくい季節だと思う。それにまず本音を言ってしまえば、僕はエアコンがあまり好きではない。人工的に作られた冷気を持った風がなんとも気持ち悪い。それよりかは、もちろん自然な涼風が好きなのだけれど、一体全体、この東京にそういった涼風が吹く瞬間があろうか(いやない)。しょうがなくエアコンをつけて、扇風機との併用でなんとか夏をしのいでいる。6畳ワンルームの部屋で、扇風機を併用すれば、29度の設定でも随分と暮らしやすい環境になる。

-この前に、池袋でトイレを使ったのだが、ゴキブリが二匹いた。僕はあまりの恐ろしさにその場でフライングで小便をしてしまった、というのは嘘だが、そんなトイレで一体誰が小便できようか(いやできない)。確かに、ゴキブリにこれといった害はない。大きささえ除けば、蟻とあまり変わりはないと思う。さすがに蟻が二匹床を這っているのを見るくらいで小便を断念する人はまずあるまい。それでも、小便というのはなんとも我儘なもので、一旦出てしまうと、出きるまで止まらない。まあ、正直に話せば、ものすごく体のとある部分に力を入れれば止めることはできるのだけれど、結果的に出るという事実は変わらない。となると、小便が出ることによって、僕はその場で一定時間拘束されてしまうということになる。その動けない間、ゴキブリ動きをどう予測つけようか、しかも二匹だ。最悪の想像まですると、どうしても僕はそのトイレの使用を決心できず、心なしか内股歩きのまま、次のトイレを探したのだった。

-どうしてもこの季節はゴキブリが出てしまう。もはや、季語としていいのだと思う。「池袋、夏になったら、ゴキブクロ」お~いお茶の俳句大賞ならなんとか佳作を取れそうな句ができた。とりわけ、トイレならまだしも、街の歩道にまでちょろちょろといるのは、ちょっとひどいんじゃないかと思う。もう少し、自然と共存していてほしい。ゴキブリがあえて、コンクリートの上を歩く必要はないだろう。それに、コンクリートの表面の黒ズミのごとく、ちゃっかりいたりするので、近くにならないとわからない。その状況にとらわれすぎると、コンクリートの模様全てがゴキブリにみえてくる始末である。それでも奇跡的に僕の家にゴキブリが出たことは一度もない。どんなに壊滅的に部屋が汚かったとしても出たことは一度もない。やはりそれは二階だという事実がきっと一番大きいんじゃないかと思う。ゴキブリだって自分の五倍ほどの高さのある階段一段一段をわざわざ登るほど暇じゃないんだろう。

-そういえば、今日はこれから花火を見に行くことになっている。はっきり言って、行きと帰りの人が多すぎるので億劫なんだけれど、まあ、夏に一回と考えれば行くべきなんだろうと思う。いい写真もとれそうだしね。夜でこそ、スマートフォンとの差別化ができるというものだ。

-ちなみになんだけれど、北海道を避暑地と考えている方は、残念ながら北極にでも行った方が良いと思うくらい検討違いだから、部屋の中で僕みたいにゆっくり過ごした方がよっぽど経済的だし精神衛生上良いと思う。夏はみんなイライラしすぎだ、そういうこともあって夏はあまり好きじゃない。甲子園球児に学ぶべきことがたくさんありそうな最近の日々。


-大人になるということが一体どういうことかわからないまま年を重ねる。僕は23歳になった。このブログは僕が20歳になったばかりの頃に書き始めた。20歳の頃の自分は、今思い出したらひどい出来だな、と頭を抱えてしまうような代物だったのだけれど、得てして成長というのはそういうものなのかもしれない。今の僕は(あくまでだいぶ昔と比べて、という意味だけれど)、随分無難になったというか、きっと三年後振り返ってみても、そんなに残念なことにはなってないと思う。そのかわり、これといった特徴もなくて、まずいところもなければ、美味しいところもない、食べ物でいえばちくわみたいなものになった。

-東京に住んで、延べ三年強、池袋で過ごしてきたわけなので、だいぶこの街にも慣れてきた。東口にはほとんどといって、行かないので、僕が慣れているのは、厳密には池袋西口、ということになる。

-池袋における東口と西口は恐ろしいくらい違う。もしかしたらどの街も大体そうなのかもしれないし、都市計画的にそうすることがセオリーなのかもしれないけど、それでも、東口から西口に移るときに、一歩踏み入れたときのあの西口の雰囲気というのは、もうある種趣深さを感じる。大体、池袋東口というのは、人が多すぎて、正直とことんうんざりするというのも、あまり行かない理由の一つではあるのだけれど、なんだかそこまで面白みがない。食べ物屋さんも所狭しとごちゃごちゃ乱立していて、さらにいえば、ビックカメラは三店舗もある。東口を出ると、ドンキホーテが僕たちを待ち構えているのだけれど、その時点で東口の佇まいはお察しである。ドンキホーテが東口の縮図だ。ドンキホーテに行く人はそのまま東口の各店に行くし、東口で遊んだ人は帰りに必ずドンキホーテに寄る。そして、みんなおきまりのようにドルチェアンドガッバーナのベルトを記念に買って帰る。そんな街だ。

-対して西口は、随分と落ち着いている。ビルも東口に比べたら、半分くらいの高さのビルがほとんだ。おまけに街の作りもわかりやすい。奥に行けば行くほど怪しくなっていくのだ。ちなみにビックカメラは1店舗しかない。割と大きな公園、というか広場が二箇所あって、いろんな人がそこでお酒を飲んだり、ギターを弾いたり、恋人の肩に体を預けてみたり、口をあんぐり開けたまま寝ていたりする。人の数もそこまで多くない。東口と比べれば、大きな差だ。盤上に駒を全て埋めたときの囲碁とオセロくらい違う。

-ただ、怪しいのはやはり西口だったりする。それもよくわからない雑居ビルのうちの一室だとか。現に、少し前にそんなとある雑居ビルのとある一室で脱法ハーブを販売していて、その購入者が西口で車を暴走させて何人も轢いてしまったのだから恐ろしい。実のところ、僕も留学を終えて、だいぶ勇気が出てきたのか、興味本位で、そういった雑居ビルに特に用も無く入ってみたことがある。中は、団地の廊下みたいな感じで、各階に6部屋くらいが収められていて、ピンポンを押さないと室内に入れないタイプであった。大体、看板も付いていない。そんなところから急に、男性と女性がドアを開けて出てきて、女性の方が「ありがとうね、またね」なんて手を振って見送るものだから、本当に西口のとある雑居ビルのとある一室で何が起こっているのかわかったものじゃない。

-ホテルからカップルがたまたま出てきて、その出口ですぐ別れるというのは典型的なホテヘルの類だったのだと思う。何度もそういう光景に出くわしてきて、この前、本当に目の前でカップルがホテルから出てきて、その場で別れたのだが、僕は女性がその後行く道とまったく同じ方向に進んだ。もちろん、その女性についていこうなんて気はさらさら無く、ただ単純にスタンプカード制を採用している吉野家に行こうとしていただけなのである。それなのに、女性が僕の方をちらちらと振り返りながら、歩みを速めたりして、しまいに僕の方を見ながら携帯電話を取り出す始末だったので、勘弁してくれと思いながら、まったく違う方向に行かざるを得なかった。結局その流れで、僕は塩水を飲んでいるかのような恐ろしくしょっぱいラーメンを食べることになってしまって、僕は怒った。あの女性が白菜みたいな顔をしていたのを思い出して、僕は色々なことにいたたまれなくなった。

-あまりに西口に慣れすぎて、平気で深夜三時の西口を歩いたりすることもある。本当に、なんだか暇だな、というくらいの感覚で西口に行ってしまうのだ。何もしなくても面白い場所なので。そうすると、キャッチがうるさくて困る。キャッチのお兄さんたちには、たまに本当に恐さを感じることもある。ガストとパチンコ屋の間の路地もまた、軽くピンク街なのだけれど、深夜二時くらいにそこを通りがかるだけで、気づいたら5人くらいに囲まれて足止めされたこともある。僕は色々と健康的なことを言ってその場をやり過ごすのだけれど、「もっと元気になれるよ」とかよくわからないことを言って、後ろからついてくるから困る。それでもいずれ終わりはくるから、池袋といえど日本は安全だな、と思う。大体10時くらいまでは居酒屋のキャッチばかりなのだけれど、それを過ぎるとキャバクラや風俗のキャッチに衣替えする。「お兄さん、どうですか?キャバクラは」といった倒置法を用いたものから、「おっぱい、ヌキ、なんでもありだよ」とストレートなものまであって、色々と聞くのも楽しいのだが、ついてこられるのは結構不快なものである。

-カメラの接客をしてても思うのだけれど、そういうキャッチって引っかかるものかな、と思う。カメラを買う人は、買いに来てるから買うのであって、買わない人を接客しても買わないのだ。僕にあたったお客さんでカメラを買った人はもともとカメラを買いに来ていたからであって、僕の接客スキルとは関係ない。それと同じで、風俗に行きたい人はそんなキャッチに引っかかって行ってしまうものなのかなと思う。ソープだけで、看板を立てている店は4店くらい西口にあるわけだし。もしかしたら、表立って経営している以外にも何店かあるのかもしれない。そういうところにはキャッチを利用しないといけないのだろうか。だとしたら、ちょっとした興味もあるわけだけれど、それはそれでかなり怖そうだ。

-大学生が居酒屋から出てきて集団でがやがやしているところに、ソープからサラリーマンが出てきて、その集団の真ん中をかっ切っていく様はなかなかシュールだ。人間観察をしているだけでも西口はだいぶ楽しい。夜限定ではあるけれどね。昼なんて何も西口は楽しくない。それが、街、ということなのだろうけれど。


-どのカメラがおすすめですか?という質問に僕はうまく答えられない。つまり、おすすめにうまく答えられない程度にはカメラを知っていて、それでいて同時に、答えられない程度にカメラを知らない、ということなのだと思う。

-どのリンゴが一番美味しいですか?と言われるのと似ているような気がする。お客様の好みだと思います、以外の言いようが無くて、一体カメラを販売する人はいつもどんなことを言っているのかとてもきになる。やはり、多少の性能の差こそあれど、結局突き詰めていけば、CanonにはCanonの良さがあり、Nikonにも同様にNikonの良さがあるのだ。どっちにだって、液晶はバリアングルタイプで動くし、WiFiはついていて、センサーサイズと画素数も一緒となってくれば、じゃあどちらの方がいいのか、と言われても、ふじリンゴが一番だと思う人はふじリンゴを選べばいいのだと思うし、王林が一番だと思う人は王林を食べていればいいのだ。第一、初めて食べるリンゴがふじリンゴで、さして味が気に障らないのであれば、もうじゃあ特に何もきにする必要なんてないんじゃないかな、なんてことを思う。みんな最初だからきっと慎重で臆病になっているのだと思う。だからといって、どのカメラがいいのかと言われても実際そんなに変わらないんだけれど、と思っている。

-本当に細く、専門的に見ていけば、間違いなく違いはあるらしい。そんなときは、カメラ雑誌を見るのが一番早い。解像感などの比較で、ここまでズームしても髪の毛一本まで精細に描写できますよ、だとか、富士フィルムとソニーとの写真の色合いの違いとかを細く説明しているのだけれど、まあ、そんなこと言われても実際にどこまで気にするものなのかな、なんて思う。もっと迷うようなことを言われて満足するのかな、とか思うわけで、どのカメラでもできる写真の質は一緒だから、あとは使ってくうちに使いたいレンズや、設定の仕方がわかってくるので、まずカメラに慣れることが大切で、初めてカメラを選ぶとなったときが一番大事な選択のようで、実際取るに足らない瞬間だったりする。もちろん、コンパクトデジタルカメラと一眼レフが一緒だなんて言わないけれど。

-なので、たまに意味のわからない、強いこだわりを持っているカメラ好きの人が現れて、延々とその性能の良さを語って、満足したら帰っていくのだが、すごい知識を持っているんだなと尊敬する一方、めんどくさいなあと多少思う。得てして、何かのマニアというものはそういうものなのかもしれない。映画に関しても細く見れば、本当にいろんなことが詰まっているけれど、それを説明したところで共感は得られない。

-だけれど、カメラ、というか写真が楽しいのは事実で、僕自体もカメラのおかげでだいぶ生活が変わった。被写体探しに外に出ることが多くなる。もしかすると僕はカメラが好きなのではなく、写真が好きだから、カメラは大体全部一緒だなんて爆弾発言を平気でしているのだと思う。あまり間違ってはないとは思うのだけれど…。とにかく、スマートフォンやコンパクトデジタルカメラなどの安価なカメラとは比べものにならないぐらい一眼レフの写真の出来味は素晴らしいもので、どんどんとその写真の質感にはまっていき、いろんな写真を撮ってみたくなってきた。そうなると頻繁に外に出歩くようになる。家にいては被写体に限界があるからね。サボテンを育てているわけでもないし。

-この記事のタイトルは『写真について』の方が適切だと思ってきた。だけれど、僕のこの記事を書き始めた思いを汲み取れば、『カメラについて』というタイトルでいいんじゃないかなと思う。だって、散々違いを説明したあげく、「じゃあどっちのカメラがいいの?」と責められても、説明した違いから自分の好みにあった方を選んで欲しいわけで、映画を字幕で見るのと吹き替えで見るのじゃどちらがいいの?と判断を委ねられるようなことを言われるのはやっぱり僕はちょっとないんじゃないかな、と思う。


-北海道とはつくづく特殊な場所だなあと思う。
北海道は自己紹介における鉄板のようなもので、たいていの場合において出身が北海道であることを伝えると何かしらのリアクションが返ってくる。きっとリアクションしやすいのだろうし、もしくは本当に驚いているのかもしれない。いずれにせよ、東京に来てからそのような自己紹介を何度か繰り返してきて、僕の気が良くなってきているのは事実である。こちらとしても、その自己紹介が鉄板であることは重々承知しているので、相手のリアクションを見越しての「北海道出身です」なのである。だから、僕の「北海道出身です」とそれに対するリアクションで1セットだ。それらは必要十分条件なのであり、お互いに補足しあって成り立っているのだ。
そういうわけで、幼い頃から僕は飛行機に乗る機会が多かった。母方の実家が神奈川県にあるために、毎年夏冬に飛行機に乗った。初めて乗った感想など覚えてられるような歳ではなかったと思う。もしかしたら泣き喚いて、他の乗客に大迷惑をかけていたのかもしれない。とにかくそのくらい昔から僕は飛行機に乗っている。もちろん、下を潜って神奈川県に行くこともできただろうが、なにせ現実的ではない。一時間半上空にいさえすれば、勝手に東京に着くのだ。飛行機を選択しない手はない。
飛行機の乗車代というのも随分安くなったように思う。今なら最安で4200円程で東京から北海道に行けてしまう。飛行機代なんてものは、実際にその場所に行くことが現実的にならないまでは、なかなかいくらかだなんて調べないものである。だから、僕が毎回5000円くらいで北海道に行ってることをいうとみんな驚く。「夏とはいえ、結局は夏なんだから、北海道だって随分と暑いよ」、というと、それもまたなんだか冷蔵庫を開けて何も入っていなかったような顔をされて驚かれる。北海道について話すことはたまに疲れる作業だ。平坦な話ができない。
朝起きたら、雪が積もっていて、ドアが開けられないという話も驚かれるが、別にそれは北海道に限った話ではない。だけれどなんだか、北海道出身者にこそ話せる権利が与えられているような感じもする。雪にまつわる話は確かに豊富だ。はっきり言って、雪玉なんてある一定の段階でみんな作り飽きるから、よほどの付き合いがなければ、小学生ですら雪玉を投げない。あと、ほとんどの人が氷の上を歩くのがとても上手い。多分、カメラの手ぶれ補正機能と同じ原理なのだと思う。僕に関して言えば、走れる。JRも平常運転を忘れないし、車もゆっくりではあるがきっちりと走る。少しお金のある家の人はロードヒーティングと言って、地面が温めて、雪かきをする必要がない。

-僕の友達にも北海道に行きたいと言ってくれる人が何人かいるのだけれど、実際に僕が北海道の何を知っているかと言われれば何も知らなかった。函館と小樽くらいにしか行ったことが無かった。住んでいるところが札幌だから得しているところも多いのだけれど、結局のところ、いち都会だ。没個性。それでも、いくらか空が広く感じるのは偶然じゃないはずだ。なんだか北海道は空が広い。いや、東京が狭い。とにかく、なんだか僕には東京が住みづらくて、ずっとこの地に暮らしていこうだなんて正直な話これっぽっちも思っていない。楽しいことは楽しいし、便利だし、落ち着いて住もうと思えば、もちろん落ち着いて住めるはずなのだけれど、どうも馴染まない。おそらく、何かのナショナリズムみたいなものがあるのかもしれない。北海道に住んでいる人は、何かしらの理由をもって北海道に住んでいるんだと思うと、わりかし居心地がいい。

-飛行機でたまたま窓際の席に座った時は、疲れたら本を読むのをやめて、窓に額をくっつけて、空を眺める。北海道の輪郭みたいなものが見えないものかなと思ってはみるが、一体今見ている輪郭がどの部分なのかまるでわからない。雲の上の世界はとてつもなく綺麗だ。雲がまた、一つの大陸のようにお互いに重なって、光を秘めている。飛行機にいるときにしか見れない景色だから、やはり窓際に座ることはそれだけの価値があるのかもしれない。いろいろ遠慮しがちな性格なので、ときには通路側の方が割と安心なときもあるのだけれど。

-八月にまた帰ろうと思う。一ヶ月間くらい。できれば。
僕は北海道のことを実際にはよく知らない。だからいろんなところに行けたらいいかなと思う。ベタだろうがなんだろうが、富良野のラベンダー畑なんて行ったことない。多分場所に関わらず、ラベンダー自体を見たことがないのかもしれない。ご立派にラベンダーキャラメルや、ラベンダーソフトクリームなんてものをよく食べるのだが。

-カメラを最近買ったから、いろんなものを写真に撮るのも楽しいなと思った。もともと出不精なはずなのだけれど、家にいては被写体も限られる。写真好きと旅行好きは兼ねるものだ。とりあえず第一歩、飛行機のチケットを探してみようか。
ここまでくると言語って何なんだろうって思えてくる。
つまり僕は、英語教師を目指している大学三年生であり、将来的に英語という言語のプロになりたいわけであり、その目標の通過点として、9ヶ月間の留学に行き、いままさにその留学が終わろうとしている。9ヶ月間が長かっただとか短かっただとか、そんな下らないことを書きたいわけではないが、この9ヶ月間が僕にいろいろな変化、そして影響をもたらしたことはまぎれもない事実だ。

前期のESL(語学学校)時代は、三年以上ぶりに、いち生徒として、英語の授業を再び受ける経験をすることができた。それも、すべて英語で。様々な国の生徒と一緒に学びながら。確かに、毎日4コマ欠かさず通わなくてはならず、さらに、グラマーの授業とかになってくると、知らないことがほとんどなかったので、ESLはつまらない、との声がちらほら日本人学生から聞こえてきていた。だけれど、その中でも、僕はなんてこのESLの英語教授法のレベルは高いんだろうと衝撃を受け続けていた。ESLがつまらないという気持ちはよくわかる。でも、僕にとってはこれほど価値のある授業を約3ヶ月毎日受けることができたというのはとても素晴らしい経験だった。それに、間違いなくケント州立大学のESLの先生のレベルはかなり高いところで安定していた。教師側からしたら、第二言語話者に囲まれ、ある意味でアウェイな環境でありながら、あれほどのパフォーマンスをほとんどの先生ができるというのは正直に驚いた。だいたいどの学校にも、一人や二人、「お前より俺が教えたほうがまだマシだろ」っていうタイプの先生がいたりするものだ。どの先生もしっかり生徒と向かい合って、様々な教授法を駆使して、生徒に英語をうまくなってもらおうと頑張っているのが伝わった。
インターナショナルな環境もまたよかった。友達がすぐにできた。はっきり言って、英語が上手な生徒なんてほとんどいるわけもなく、(それがESLなのだから)、会話を聞く分には何を言っているのかわからないことも多々あるし、特にアラビックなまりなんてものは、第一声目で白旗を振り上げたくなるようなドギツイ訛り方だった。中国語なまりも、とくに男の子はかなりエコーが効いていたし、トルコなまりに関しても、僕の中のsiriがあと一歩でブラックアウトしてしまいそうなくらい聞き取るのが大変だった。
だけれどその分、お互いの気持ちをみんなわかっていた。みんな英語が第二言語話者なのだから。英語ができなくて当たり前の世界。間違ったって何が恥ずかしいんだ、伝わればいいじゃんという感じ。ていうか共通言語って英語じゃなくて下ネタじゃね?
お互いに何言っているのかまったくわかっていないときでも、なんだか笑えてしまえる、そんな雰囲気のESL。よかったなあ。いろんな国の文化も学ぶことができたしね。アラビックコーヒーはあまり美味しくなかったけど、彼らからいろいろ宗教の話を聞いて、たくさん共感する部分もあったし、日本の世間が思ってる中国人に対する感覚ってのは本当に浅はかでばかばかしいなあってことしか思わなかったな。もともと僕は彼らに対する偏見なんてなかったけど、なんだかネット見たら中国中国ばっかうるさいやついるじゃんか。僕が出会った彼らはいいやつしかいなかったよ。それに中国系の可愛さって日本系の可愛さよりも僕好きかもしれない。まあ、それは関係ないか。
とりあえず、ESLも正規の大学の授業も半分半分受けた身としては、ESLでしかできない経験ができて本当によかったなあって思う。だいたい自分の英語のレベルが正規の大学の授業のレベルに達しているわけがないのだ。とはいえ、ESL終えたあとも足りていたかといえば、足りてなかったのだけれど、期間の問題でね。もう一年アメリカにいれるってのであれば、いろいろ考えようもあるのだけれど。

後期の正規の大学の授業時代は、あんまり良い思いがない。なにぶん一瞬たりとも授業についていったという感覚がない。授業内で当てられて発言はしたことはあるけれど、自主的に発言をしたことは一度もないし、テストもわけわかんなくて、なんでこんな授業とってるんだという思いでほとんどの期間を過ごしていた。とって良かったと思ったのは最後の授業の日の1日だけだった。「なんだかんだ授業受けきったな」という達成感と、手のひらには、授業についていくために必死で読んできたずっしりとした教科書があった。パラパラとめくるとほとんどのページに赤線が引かれていた。授業中はあんまりよくわかんなかったし、自分の存在価値も理解に苦しんだけど、とりあえずこの教科書は読んだんだなと思うと、少しばかり頑張ったような気がした。
僕が後期にとっていたのは、TESOLという専攻の授業で、日本語でいえば、まさに英語教授法というやつで、ESLの先生が大学時代によく専攻とするものである。だから、その授業では、みんなといろんなことについてディスカッションする。こういうケースでは、どういう教授法で教えればいいか、だとか。クラスマネジメントや、教師の社会的責任まで話は及ぶ。
授業を受けている間は、何一つ学んでいる気配がしなかったものの、実際今となって、自分が教師になって、これをやってはいけない、これをしたほうがいい、あんなことを授業でやってみようというのが、ビジョンとして浮かんでくるということは、意外と学んできたのかもしれない、なんてことを思った。英語教授法に絞って、1学期勉強しただけあって、同期の英語教師と比べて、引き出しの数では負けない気さえしている。英語教授法を学んだとはいえ、実際はそんな簡単なもんじゃないだろと、未だに教授法に対して軽く懐疑的なのは変わりないんだけどね。

ネイティブ話者たちの前で、英語でプレゼンテーションを三回したんだけれど、これは堪えた。一回僕、教授に呼び出しくらったんだよ。前回のプレゼンについて。確かに、自分でもダメダメなのはわかっていたし、僕に向かって話すときだけ、みんなに向かって話すときに比べて、ほんの少しだけテンポが落ちるんだ。これはものすごい微々たる差だったと思うんだけど、あのときの僕は敏感に察知できた。やっぱり僕は第二言語話者であって、言語にハンデがあるんだと思った。言い方は正しくないかもしれない。でもあのときの僕は、障害をもっている人が「特別扱いされたくない」っていう気持ちが、初めてよくわかった。なんだか、言語ができないって本当にいろんなことに障害になるんだなと思った。読めないし、聞けないし、話せない。目が見えても、耳が聞こえても、声が出せても、読めなきゃ聞けなきゃ話さなきゃ、なんにもことが進まない。ゼロだ。でもそんなことは痛いぐらいわかってる。だからこそ、僕たちは中学生の頃から英語を勉強してきて、僕は英語のプロになろうと、英語の本場アメリカに来た。そこで散々な目にあった。たしかに、僕は読めないこともないし、聞けないこともないし、話せないこともないけれど、やっぱり、周りより一歩も二歩も遅れていた。僕があのときの教授の微々たるスローダウンに気づいたときの感情は、実際は「特別扱いされたくない」っていうものよりも、「おれ未だにこんなんで、何やってんだ」っていう自分への怒りのほうが大きかったような気がする。悔しさだったのかもしれない。でも、その乗り越えなくてはならない壁のあまりの高さに、「だってしょうがねえだろ!」っていう感覚も同時にあったし、「別に聞こえなかったら聞き返せるし、完全に聞こえないわけじゃないんだから、特別扱いすんじゃねえ!」っていう多少なりとものプライドがあり、やっぱり教授に対しての怒りもあったんだと思う。(笑)

言語ってなんなんだろうな。

この自分の中の哲学ともいえる一つのテーマが、留学を終えようとしているころに、自分の中に芽生えた。考えれば考えるほど、その概念は深みを増し、濃くなり、また薄くなり、自分を飲み込んでは、また吐き出した。

勉強を留学生活の一面とすれば、友達との交友もまたもう、一面だった。そしてそれは僕にとって、結果的に勉強側よりも大きな一面となっていた。たくさんの友達ができた。本当の友達。文化交流だとか、英語の上達だとか、そういう利害関係一切なしの純粋な友情。たくさんの楽しい場所にいった。芝生に寝て一緒に空を見上げた。翌朝5時まで図書館に残って、結局勉強せずに話すだけだった。ビールを片手に、Love on topをかけて一緒に歌って踊った。屋根の上に上がってお酒を飲んでいたときにパトカーが止まって肩を寄せ合って焦った。笑う顔もみたし、怒る顔もみたし、泣く顔もみた。色んな恋愛模様が僕のはるか遠くを動けば、僕の真横を通り過ぎた。

たしかに彼らとしゃべるときは英語だ。だけど、英語が必要だったか?と言われれば、あえてNOと言いたい。英語がうまい必要があるか?と言われれば、僕は強くNOと言う。Language barrier というものがある。言葉の壁だ。果たして、それは乗り越えなくてはいけない壁なのだろうか。乗り越えてみる景色は果たして、そんなに良いものなのだろうか。僕はそう思わない。僕はたしかに、その言葉の壁に細々と穴を開け、その小さな隙間から向こうの世界をみている。たしかに全てを見渡すことはできていない。向こうからの光もわずかしか届かない。
だけれど、言語の壁を乗り越えて、向こうの世界を完全に理解してしまう必要が友情関係にあるのかと思う。むしろ、僕たちはこの言語の壁のおかげでこんなに仲良くなれたのかもしれない。

人間の争いの発端、きっかけを紐解いてみると、ほんのささいな言葉尻やニュアンスの違い、誤解だったりする。
僕たちは母国語にとても敏感だ。敏感すぎるくらいだ。ちょっとした感情が、ほんのちょっとした言葉の変化により、それがニュアンスを変え、相手に敏感に伝わる。僕たちは、一つの意味しか持たないものに対して、いくつもの同義語を持ち、そしてさらにそれらをニュアンスに合わせて絶妙に使いこなす。言葉尻一つで相手を激昂させることなんてやろうと思えばだれだってできる。
言語に敏感であるということはときとして、なんて悲しいことなんだろう。

僕と外国人の友達の間には紛れもなく、言葉の壁がある。テンポよく会話をつなげることは難しい。
だけれど、もし僕がとてつもない変な失礼なことを言ってしまったとしても、その言語の壁がろ過し、相手がうまく汲み取って受け取ってくれる。それはもちろんお互いがお互いのことを好きだということが成立している場合だけれどね。だけれど、僕が相手に対して、真摯に向き合っている限り、たとえ僕が変なことを言ったとしても、「なんか変なこと言ったけど、そんな意味でいうわけない」という風に受け取ってくれる。純粋な気持ちは言語の壁を間に挟んでも決して濁らない。
僕たちの側からしたってそうだ。僕には向こうのニュアンスをいちいち把握できるほど、英語を知らない。意味はわかるけど、あくまでそれは情報としてだ。だから、僕は彼らの言っていることに対して、イラッとしたことなんて一度もない。単純に気づいてないだけなのかもしれない。もしくは意図的にすごいひどいニュアンスのことを言われながらも、僕が良いように解釈しただけなのかもしれない。だけど、それで良いじゃないか。
留学を経て国際恋愛が成立する理由がすごくよくわかった。夫婦間の喧嘩のきっかけなんて、本当に言葉一つじゃないか。国際間の交友関係は恋愛、友情ひっくるめて、言葉はあくまで相手に気持ちを伝えるだけの乗り物にすぎない。運ぶ以外の役割を持たない。あるいはそれは軽自動車かもしれないし、スポーツカーなのかもしれない。だけれど、だれもそんなことには気にもしない。気持ちが届いたらそれを受け取って、また相手に自分の気持ちを送り返すだけだ。純粋な気持ちだけの交換。こんな素晴らしい会話他にあるだろうか。

外国人の友達を見てると、外国人どおしで、「あいつとあいつが実は仲良くないんだ」という話を聞くことがあって驚くことがあった。理由を聞くと、「なんか言葉が偉そうで気に食わない」ということだった。

言語ってなんなんだろう。

言語を学びに来た留学生活。言語のプロになろうとしている僕のこれから。言語を知らなくては何もできないんだということを実感したアメリカでの授業。そして、言語の壁を乗り越える必要はあるのかと悟ったアメリカでの交友関係。言語とはなんなのだろう。何かを得ると同時に何かを失うというのが、きっとこの世の定理なのかもしれない。
僕の留学生活はあと2週間もしないうちに終わる。2週間もすれば、今ごろ、日本で松屋の牛丼でも食べているころかもしれない。今いる友達のほとんどと2度と会う事ができないだろう。(僕はこういうときに結構現実的になるタイプの人間なのだ)。そして、もしかしたら彼らが気持ちで会話できた僕の唯一の友達なのかもしれない。
僕は日本に帰って、大好きな友達と再会するだろう。「やっぱりこいつらだ」と心から思うだろう。大好きだと実感するだろう。こんなに楽しくスムーズに会話できるやつらはこいつらしかいないとやはり日本の友達と出会ってそう思うだろう。何も僕は外国の友達と比べてどちらが好きかだとかを言いたいわけでは全くない。だけれど、僕は海外に行って少なくとも、そういった大事な価値観を受け取った。その価値観はきっとこれから大事な意味を持ってくるはずだ。このケントで得た9ヶ月間の思い出とともに。
つい先日、日本人の友達がこのケントを去った。彼らは広島のとある大学に通っているので、僕らは留学を機に知り合った。彼らは僕と同時期にケントにやってきたものの、彼らの学校のカリキュラムの都合上、次の学期が始まる4月までに帰国しなくてはならなく、僕より留学期間が2ヶ月ほど短かった。僕と同時期に帰るならまだしも、僕より先に行かれてしまうと、さすがに少しばかり感傷的にならざるを得ず、やはり彼らがケントにいない毎日というものはなかなか考えたくないものであった。そしてもちろん、同じような思いを抱いている者は僕以外にもいた。僕らの共通の友人のマット君である。
マットは大学1年生だ。(いまだに信じがたいところではあるけれど)だから、実のところ、日本人と友達になることも初めてだ。もとはといえば、彼は「ゼルダの伝説」が大好きで、僕たちと出会う前に、独学で、日本語を少し勉強していた。きっと、ゼルダの伝説だけが理由ではないだろうけど、ともかくいろんな理由で、日本に興味があったのだろう。そういう意味で、僕らの存在というのは彼の人生に少なからず影響を与えたことは事実だと思う。僕たち日本人が、まるで、それこそかつて日本にやってきた黒船のごとく、40人ほどでケントに突然押し寄せたのだから。今となっては15人ほどしか日本人は残っていないけれど、それでも、彼が日本人と話す機会を得るには十分な数だったとは想像するに難くない。
そのうちの一人が僕であったし、そのうちの三人が彼らだった。
僕たちは一緒にマットの誕生日を祝ったし、一緒に新年を迎えて、マットに日本から持ってきたどん兵衛を食べさせたし、もちろん彼らが去る日の直前に最後の晩餐をした。どれほどお互いの笑った顔を見たことだろう。いくつもの下ネタも言い合った。(結局のところそれが僕たちの全てだ)マットから何十もの汚いスラングを教わり、僕たちも何十もの隠語を教えた。僕たちが、マットに最後に教えた隠語は、並みの男性では頭に浮かびさえしないくらいアカデミックな隠語だった。僕がその言葉をキーボードに任せてタイプするだけで、画面がショートし、このケント全体のネットワークが一気にブレークダウンすること間違いない。とりあえずそれほど汚い言葉だった。面白かったけど。
ともあれ、僕たちは良き仲だった。僕たちは最高に楽しい時間を送っていた。別れのときが迫っている事実に目を背けながら。どんなに幸せな時間をすごしていたとしても、常にその言葉尻には、「でももうすぐ帰らなければいけない」が付きまとっていた。僕がそう思っていたのだから、彼らだってそう思っていたはずだ。
そしてついに彼らは広島に向けてケントを去ってしまった。
それから数日後だった。とてつもなく大きな感情の波がマットを突然襲った。まるで恐ろしく大きな波に完全に飲み込まれたかのように、彼の感情は深く、果てしなく、沈んだ。これはその翌日に彼が僕に直接語ってくれたことだ。
もうすでに広島にいるであろう彼らのことは笑顔で送り出せたものの、彼らの喪失という覆されない事実は、それから数日の時を経て、マットに痛烈な現実をつきたてたのだった。「こんな風に僕の友達はみんないつか去っていってしまうんだ」いわばそういった現実は、大きな感情の波を引き起こすのに十分なものだっただろう。
僕たちはこんな、なんてすばらしいやつを友達にもったのだと思った。僕たちは胸を張って良い友達だということができる。
正直なところ、留学に来る前のころ、僕は、結局、外国人と僕たちの間には国の壁、とでもいおうか、つまり、外国人と信頼しあえる友人関係になることに、当時、僕は半ば懐疑的であった。ただでさえ、価値観の違いはあるだろうに、ましてや、言語が一方通行であるときた。面白い話できずに、何が友達なんだ?と、なんとも情けないことに、自分の器の小ささをずいぶん露呈していたものだ。
当然のことながら、僕の考えは間違えだった。僕が自分の身をもって証明していることだ。広島の彼らはマットのことが大好きだし、マットだって彼らのことが大好きだし、ついでに僕のことも好きだ。(そうでなかったら・・・)
こんなに、完全な友情関係が築けるとは思ってもいなかったのだ。なんて悲しいやつなんだ僕という人間は。それでも、僕はひとつ間違っていなかったといえることがある。僕が留学当初、このブログで書いたことだ。「ただ言葉が違うだけ」。言葉が違うことは、いわば、重い足かせのように聞こえてしまう。だけれど、それは結局のところ、外国人を、英語を話す相手くらいにしか捉えていない人間の考え方に過ぎないのだ。僕はそういう人間に真っ向から反発している。外国人を、自分の英語力を伸ばすための道具のように思っている人間に、僕はド正面から反対の意思を掲げる。確かに、その考えには一理あるのはわかる。何を言ってるんだ、それが留学じゃないか、そういう意見が通る世界なのもわかる。単に、僕と考え方が違うだけなんだ、とそう片付けることだってできる。しかしながら、その考えはなんて悲しいのだろうとも思う。その人と話したいから、共通言語である英語を使うのだろう? 英語を使いたいから、その人と話したいのなら、なんてそれは失礼なことなんだろうと思う。
これが、僕が唯一、確信を持っていえる信念だ。そして、だからこそ、僕たちは、国が違いながらも、こんなにすばらしい関係性が築けたのだと思う。そして、マットに限らず、僕の周りにはもっとたくさんのすばらしい外国人の友達がいる。特別、マットといる時間が多いのだけれど、その友達もまた、日本語をしゃべっていようと、同じく仲良くなっていただろう人たちだと確信できる。
だからこそ、広島に去っていった彼らの衝撃は、マットだけでなく、実のところ、僕にも襲いかかっていた。僕は紛れもなく、彼らと自分を重ねていた。僕も、彼らと同様に、二ヶ月後、このケントから去らなくてはならない。彼らの帰国は否応なくその現実に僕を直面させた。
思い返せば、こんな感じで友達と別れることって、今までの人生で一度も無かったな、なんてことをふと考える。転校こそしたことあれど、なんかそれとこれとはまた別な気がする。これが留学なのか、としみじみと胸がしみる思いである。
本来ならば、この記事で述べたことは、僕自身の留学最終日にでも書きたかったことなのだけれど、やはり、前述したように、僕にもその衝撃は依然として強かったようで、どうしてもこの平日ド真ん中のド深夜に筆をとる手を止められなかった次第である。ウルルン滞在記も、なかなかばかにできない番組である・・・。
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サマータイムが始まった。
つい最近までマイナス26度を記録していたばっかりなのに、何を言っているのだろう?と僕はしばらく首をかしげていたが、深夜2:00分を記録するはずのデジタルのディスプレイが、突然3:00分になったのだから、僕はその事実を認めざるを得なかった。失われし、1時間。不思議な気分だった。相変わらず、アメリカはオリジナリティあふれる独自のシステムに、依然として固執しているようだ。
つまるところ、僕は以前より、1時間早起きしなくてはいけないということだった。ただでさえ、9時15分にある授業を週に2つ持っていた僕は、実感、義務教育時代よりも、早い時間の授業を受けることになった。ところが、これが不思議なもので、意外と苦ではない。以前までは8時だったはずの、9時。以前まで起床時間だったはずの7時が、6時に変わる。
ところが、結局のところ、デジタル時計が、7時をさしていれば、感覚も7時に変わりはなかった。この調子で、人間の知らない間に、毎日時間を1時間ずつずらしていても、誰も気づかずに、デジタルに定められた時間に目覚め、そして床につくのだと思った。やはり僕は目覚まし時計なんてものは使いたくないものだなと思った。
それでも、授業には遅れてはならない。前の日にいくら騒いでいようが、いくら遅くまでおきていようが、決まった時間に目覚めなくてはならないという日は存在する。しょうがなく、心のそこからしょうがない思いで、僕はアラームをセットし、7時に目覚め、2回ほどの軽い睡眠をはさんで、結果的に8時におき、熱いシャワーを浴び、朝食代わりに何枚かのクッキーを、泥水のようなブラックコーヒーで流し込んで、登校の準備をする。

今回の記事では、最近僕が授業で何をやっているのかについて語ろう。
僕が、とっているTESOLという専攻の授業についてだ。TESOLとは、簡単にいえば、How to teach Englishといった感じのもので、実質的に僕の学びたいことと直結している。さらに、これが、日本で学べるのかといえば、そうではない。このTESOLは、英語が第二言語であるものに向けての、授業法であるからだ。
僕は、日本の大学で、英語の教授法を学んでいたが、はっきりいって、比べてみると雲泥の差だった。たしかに、日本での授業は面白かったし、探究心が芽生えたのは確かだが、今僕がアメリカで学んでいるように、それほど実践的な内容を学んでいた記憶はなかった。
僕が、いま、アメリカの授業で使っている2つのテキストはとてもすばらしいもので、むしろおせっかいもいいくらいなほど、豊富にメソッドが書かれていて、そしてそのどれもが参考できるものだ。もちろん、日本でも、参考になる教授法がたくさん含まれている本はあるであろうが、結局のところ、それはTESOLのものと根本が違う。日本での教授法は、英語を日本語で教えることに終始しているものが多いのに対して、TESOLでの教授法は、英語を英語で教えるというものである。むしろ、それについてしか、書かれていないので、そのことに対する、専門書といえるだろう。
実のところ、日本での英語教育は、だんだんと、TESOL寄りになっていっているのは間違いない流れである。いずれ、遅かれ早かれ、中学や高校において、英語を英語で教える時代が必ず来る
第一、英語教員の留学必修化が考えられている時代だ。文科省が費用を負担してくれるのなら、申し訳ないながらも個人的にはありがたい話ではあるが、なんともこの留学を事前に経験しておいてよかったなと心から思う毎日である。本当にこの留学は僕の力になっている。
とはいえ、授業は難しい。二つの授業ともディスカッション形式の授業なので、ネイティブたちと対等にディスカッションで渡り合っていかなくてはならない。そして、プレゼンテーションが割り当てられているので、10分強、ひとつのテーマについて、パワーポイントを使って、プレゼンテーションをしなくてはならない。それはかまわないのだけれど、やはり、ディスカッションで発言できないときの、自分の存在意義のなさといったら、まるで無為におかれたバランのようなもので、食べられないし、むしろ邪魔といった具合である。どう考えても、あんな環境萎縮してしまう。
だけれど、それ以外にオプショナルに付いてくる課題が結構楽しかったりする。
毎日1コマのESL授業への出席と、週に1時間のチューター勤務が課せられている。これが、面倒くさいといえば、面倒くさいのだが、実に楽しい。ESL授業に関しては、事前に、アシスタントしたいレベルを聞かれるので、僕は10段階の中で、レベル3を選択した。もちろん、興味があったというのと、大体、日本の中学、高校生のレベルに適しているのではないかと思ったからだ。
アシスタントとはいえ、僕はただ、ひたすら観察。クラスメートの中には、実際に授業をさせられた人もいるみたいだけれど。この観察が面白い。やっぱり想像通りな感じで英語ができないので、そういう生徒の観察も興味深いのだが、特に先生の授業法が参考になる。幸運なことに、僕のアシスタントしている先生は、実際に僕も前のセメスターに教えてもらった先生だったので、コミュニケーションが柔軟にできるわけだが、それと同時に、彼の違いについてもわかりやすかった。明らかに、彼は、しゃべるスピードをゆっくりしていて、さらに発音をできるだけ、はっきりさせていた。しっかり考えているのだな~と思った。
チューターに関しては、50歳くらいのベテランチューターのそばについて、これまた観察する。簡単にいえば、ESLのアシスタントでは、集団授業の教授法が学べて、チューターのアシスタントでは、個別授業の教授法が学べるといった感じだ。このベテランチューターも本当にすばらしい先生で、どんなレベルの生徒がきてもそれにすばやく対応することができていた。そしてリスニング能力が半端じゃなかった。アラブ系の生徒のアクセントといったら、強すぎて、そして早すぎて、本当に何を言っているのかわからないことが大概なのだけれど、この先生の場合は、どんな発音であったとしても、信じられないことに一度で理解してしまう。神の耳を持っている人だった。やはり、僕たちインターナショナルにとって、英語が伝わらないといったことほど、悲しいことはない。だから、どんなに汚い発音だったとしても、聞き取ってくれることほど、うれしいことはないのだ。さらに、底抜けにやさしい。生徒に英作文をさせるときにも、どんなにそれが、単純で、誰にでもかけそうな文章だったとしても、文法上にミスがなければ、「Great Sentence!」と言う。生徒はうれしそうにする。僕はその反応を完全に肯定している。だって、いくら僕たちにとって、簡単だとしても、その文章がきっと、その生徒のベストなのだろうから。それならば、思いっきり、ほめても何もおかしいことはないだろう。
というわけで、これが最近僕のしていることだ。
教師になるにあたって、これほどまでに、実践的で勉強になることはない。また、僕も、なんとかくらいついている。あと二ヶ月我慢すれば、、、なんてそんな気分ではあるくらいしんどいけれど、だけれど、やはりこの期間が、いずれ、とんでもないほどに力を持つであろうことはわかっている。だからこそ、僕はさらにがんばらなくてはならない、なんてそんなことを思っている。