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「自分のやりたいことが叶わぬなら、いっそ死んだほうがマシだ。要らぬ心配をするな」
「その死に方が、たとえ胡乱な者として敵に討たれてもか」
この問いかけにも、土屋ははっきりとうなずいた。
「わしはの、自分が知りたいものをこの目で見て、出来れば触れるためにずっと生きてきた。それで死ぬるのなら本望である」
「いや、しかし-」
そう言いかけた光秀に、さらに土屋は被せた。
「世間では死に際が大事だと言うような馬鹿者がいるが、大いなる見当違いである。あまりにもしみったれた、犬のような料簡である。死に方など、どうでもよいことではないか」
これにはさすがに光秀も持て余したようだ。
「だったら、何が大事なのだ」
「自らが心底好きなことで生きて来たかどうか。この一事のみである。人にどう思われるかは関係ない」土屋は言い切った。「それをせぬと、膾にされて死ぬより後悔するだろう。少なくともわしはそう感じる」
「まったく同感である」
そう大きく発せられた声が、直後には自分のものだと分かった。愚息もやや上気した表情で、口を開いた。
「おぬしは時おり、目の覚めるようなことを言う」
その通りだと新九郎も思う。
この男は少なくとも自らの生において、何を捨てて何を活かすべきなのかを知っている。そして、それは、まったく正しい。
人が生きている時というものは、有限なのだ。その限られた今生において、何もかも手に入れることはできない。
「光秀の定理」から何年か経ち、明智十兵衛光秀とその友垣の聖・愚息、笹の葉新九郎らとまた本の中で出会えたのはうれしかった。そして今回は土屋(大久保)十兵衛長安が加わり彩りが明るく変わった。
武田信玄の湯之奥金山と毛利元就の石見銀山に潜入して、産出量を記載した台帳を確認するようにと織田信長が光秀らに命じたことからこの物語が始まった。
戦国時代、敵地領内で採掘が行われている金山や銀山の金銀の産出量を調べることは重要機密の最たるものであるから、間諜でも近づくのは難しく宝の山に近づこうとするのは並大抵ではない文字どおりに命懸けの行為であった。
石見銀山を一度訪れたことがあった。石見銀山街道の描写がうまくて頭の中でひっきりなしに訪れる人々の雑踏や密集した建物を軽く想像することができた。また、自分も銀山に潜入している様な既視感がありハラハラドキドキしながら十分にストーリーを楽しめることができた。この潜入の場面では、追われる者逃げる者と、毛利方の追う者とのスピード感と緊迫感が伝わってきてとても面白い読みものであった。
底知れぬ恐ろしさを秘めている信長と上司の命令に忠実な光秀の行動とその反骨心の記述から、その後の本能寺の変に至るまでの黒い歴史を予感させる筆力があった。
<目次>
第一章 策謀
第二章 武田の金
第三章 毛利の銀
第四章 乖離
垣根涼介さん
1966年長崎県生まれ。2000年『午前三時のルースター』でサントリーミステリー大賞と読者賞をダブル受賞。04年『ワイルド・ソウル』で大藪春彦賞、吉川英治文学新人賞、日本推理作家協会賞の史上初となる三冠を達成。05年『君たちに明日はない』で山本周五郎賞、16年『室町無頼』で本屋が選ぶ時代小説大賞、23年『極楽征夷大将軍』で直木賞を受賞
