葉真中 顕さんは初読みにして久しぶりに出逢った傑作であり力作であった。
いくつかの点が点であったものがしばらくして柔らかな糸でつながっていった、それがいつか一つの線となっていった、その線はだんだんと太くなって面になっていった。例えてみると、繭を紡いで糸になってそれが絹となっていき布が織られ反物になっていくような感じ。読み進めるにつれて物語が徐々にひとつに繋がっていった。
失われた30年、就職氷河期、引きこもり、8050問題、ホームレス、孤独死、ブラック企業等々、普段目を背けがちなこれまでの影の歴史を話題として取り上げていた。
殺人事件を追う刑事の奥貫綾乃の言動とともに、団塊世代ジュニアの草鹿秀郎の独白が交互に続いていく。
草鹿の「明日は今日よりも豊かになる」の文章で始まり「明日は今日よりも豊かになる」でこの小説は幕を閉じる。
右手を左胸に当てると、どくどくと手に動きが伝わってくる。鼓動が聴こえてきた。
「生きていきたい」と草鹿はそう思い引きこもりながらも生きてきたんだ。
大学を卒業後、正規雇用からこぼれていった。親の年金を頼りに引きこもる日々。でもいつか終わってしまうとこれからどうやって生きていける?
50歳近くの無職で独身で引きこもりの男性。自分の子どもを愛することができずに離婚して独りで生きていく女刑事。首を絞められ命を奪われ公園で顔を燃やされたホームレスの老女。普通に考えると重なることのないはずの点が重なって一本の線になっていく。
どこにも居場所がないし誰にも必要とされていない、けれどもそれでも自分はここにいるんだ、ここで生きているんだと叫んでいる声が聞こえてくるようで悲しかった。
「自分らしく生きていく」ことについて、
二つの箇所が共鳴していたので引用してみたい。
67P
「自分らしく、生きればいいんだよ。どうせ男らしくなんてなれないんだから、割り切ってさ」
「自分らしく」
「そう。たとえばぼくの場合だったら、好きなことを突き詰めて考えるのは得意だからね。そこで勝負するんだ。たくさんマンガ読んでアニメ観て、自分なりにいろいろ考えて、それをまとめて文章にしたり、人に話したり、そういうことを一生懸命やるんだ」
S・Sは、オタクの巣窟の科学部の中でだれよりもマンガとアニメに詳しく、定期的につくっている雑誌では長文のエッセイや評論を書いていた。それらには、いつも独自のしかし説得力のある視点や解釈が含まれていて、アニメ雑誌に載っているプロの文章と同じくらい、ひょっとしたらそれ以上に読み応えがあった。
「まあ、結局、好きでやってるだけのことなんだけど、得意なことを一生懸命やるのは楽しいっていうか、やっぱり充実するじゃん。ぼくのする話や、ぼくが書いたものを面白いって思ってくれる人がいると、すごく嬉しいし。これが本当の自分なんだなって、思える。すると、もしだれかに男らしくないところを気持ち悪いって思われても、別にいいやって、気にしないでいられるんだ。ぼくはもうそのレースを降りたからね、って。ぼくの自分らしさを好きだと言ってくれる子も見つかった。まあ、これはやっぱり巡り合わせかな」
S・Sは少し照れたようにまなじりを下げた。
「そっか。男らしく、じゃなくて、自分らしく、か」
クラスで変人扱いされているS・Sの「変さ」も、突き詰めれば「自分らしさ」になるのか。
264P
引きこもりたくなんかなかった。恋愛をしてみたかった。セックスをしてみたかった。自分の家族を持ってみたかった。友達が欲しかった。人並みに働いて承認されたかった。あの塔の上の方でなくてもいいから、せめてみじめな思いをしないで済むくらいの高さまでは登ってみたかった。
自分らしく生きてみたかった。
ようやく気づいた。自分らしく生きるということは、自分で自分を承認することなのだ。S・Sが自分らしく生きればいいと言ったあのとき、彼は自分のことを承認したのだろう。それは強さだ。ぼくと同じくオタクで、ぼくと同じく男らしくなかったS・Sは、しかしぼくよりずっと強かった。だから塔を登れた。弱い僕は登れなかった。
1976年東京都生まれ。2013年『ロスト・ケア』で日本ミステリー文学大賞新人賞を受賞しデビュー『絶叫』は吉川英治文学新人賞、日本推理作家協会賞の候補、『コクーン』は吉川英治文学新人賞の候補、『Blue』は山田風太郎賞候補となる。2019年『凍てつく太陽』で大藪春彦賞、日本推理作家協会賞(長編および連作短編集部門)受賞。2022年『灼熱』で渡辺淳一文学賞受賞