【No1483】スピノザの診察室 夏川草介 文藝春秋(2023/10) | 朝活読書愛好家 シモマッキ―の読書感想文的なブログ~Dialogue~

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読書は、例えば著者、主人公、偉人、歴史、自分等との、非日常の中での対話だ。

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雄町哲郎は、京都の原田病院で働く内科医である。

シングルマザーだった最愛の妹が若くして病を得、闘病の末にこの世を去った時、一人残された甥と暮らすために、将来を嘱望された凄腕の医師は激務である大学病院を去り、町医者として働く決意をした。

 

マチ先生こと、哲郎医師が大学病院ではなく京都の町医者としてなぜ従事し働いているのか。短絡的には、東京で妹が残した甥の龍之介くんを育てるためであろう。しかし、それだけではない、彼のこころには深淵の闇のようなものがあることに気づいた。この哲郎が原田医院にいる意味を今後解読していくことは面白いことになってくるだろう。

 

甘党の人にとっては、欠かすことができない最高の和のスイーツだとわかった。

219P 

「いいかい龍之介。前にも言ったことだが、この世の中にはぜひ味わうべき三つの食べものがある」

「矢来餅と阿闍梨餅と長五郎餅ですね」

「わかっているじゃないか。だから早々にお参りを済ませて、ゑびす屋に行くとしようか」

はい、と答えた龍之介が、再び白砂の上を駆けだした。

 

僅かな時間でも火花があって機微が鋭い。

61P

哲郎は坂崎の目を見て静かに告げた。

“薬を増やします”

坂崎がほっとしたようにうなずいた。

うなずいてから妻の方に、震える顔を向け、小さく笑ってみせた。

かすかな挙動であったのに、暗闇にひらめいた火花のように鮮やかであった。その火花の中に、万感の思いが込められていた。

芽衣子の両目に、みるみる涙が浮かび、やがて、丸い両手がその顔を覆っていた。

 

余命いくばくもなくとも、人は幸せに生きることができるのだという境地かと。

151P

「たとえ病が治らなくても、仮に残された時間が短くても、人は幸せに過ごすことができる。できるはずだ、というのが私なりの哲学でね。そのために自分ができることは何かと、私はずっと考え続けているんだ」

その問いかけは、南に問うたものというよりは、自分自身への確認のようであった。哲郎は返事を待つわけでもなく、じっと空を見上げたままだ。

 

古い都はこういうところらしい。言い得て妙。

189P

「それにしても、こんな場所があったんですね。京都にはもう五、六年住んでいますが、未だに色々驚かされます」

「この町は、広いというより深いのです。とても深い……」

「この古い町の表層には、様々な歴史ある建物が残されていますが、それらは客人をもてなすために陳列された、いわば骨董品です。骨董が悪いわけではありませんが、生活が骨董に埋もれてしまえば、それは生きた町ではなく、博物館になります。むしろ古い物が骨董にならず、今も日常の中で生きているから、この町は面白いのだと思うのですよ」

「だから表層を歩いているだけではなかなかこの町の本当の姿には出会いません。あちこちに隠れている入り口を見つけて、深層に分け入って行かなければいけない」

「入り口ですか」

「観光案内書には書かれていない入り口ですよ。そういう秘密の入り口を見つけて、深い所へ降りていく、そうすると、なぜ古い町が今も生き生きとしているかが見えてくる」

「新しいものと古いものが、ごちゃごちゃに入り混じりながら、独自のカクテルとして、斬新な味わいをもたらしてくれている、そういう土地です」

 

医師であり人である哲郎は、死や狂気と紙一重というような世界を生きてきたのかと。

193P

「私は狂気の果てを見て、そこから逃げ出してきた人間です。それなのに逃げ出した先では、あなた(哲郎)のような医師が、淡々と死と向き合っている。狂気も死も、人間という存在が成立するぎりぎりの外縁に漂う宇宙ですよ。迂闊に近づけば、戻って来れなくなる。いや、戻って来る意味さえ見失います。勇気はいくらあっても足りません」

 

「生きることは行動することだ」という名言があった。

210P

哲郎はもう一度青い空を見上げた。

最先端の医療の世界は、誰も踏み込んでいない未知の領域を切り開いていく驚きと発見に溢れた道だ。顧みて、今哲郎が向き合っている世界には、発見も驚きもないかと言えば、そんなことはない。ここにも、最先端と同じくらい、多くの医療者が踏み込んでいない未知の領域があるのだと思う。むしろ医療の二字にとどまらない広大で果てのない人間の領域だ。

そこに道を切り開きたいと言えば、いささか傲慢にすぎるだろうか。

自問して哲郎は苦笑した。

理屈の複雑さは、思想の脆弱さ裏返しでしかない。突き詰めれば「生きる」とは、思索することではなく行動することなのである。

 

消化器内科専門の哲郎は、医師の仕事の本質に向き合って生きていた。

人の幸せとは何かと問い続けていた。

自らの道を進んでいく強く静かな足取りがあった。

人の幸せはなにかを考えて考え続ける哲学者のような佇まいがあった。

患者に対して穏やかな声掛けと誠実さがあった。

静かにやさしく人の命に向き合う姿は美しくて、彼の後ろ姿にぼくは心が癒された。

 

 <目次>

第一話 半夏生

第二話 五山

第三話 境界線

第四話 秋

 

1978年大阪府生まれ。信州大学医学部卒業。長野県にて地域医療に従事。2009年『神様のカルテ』で第十回小学館文庫小説賞を受賞しデビュー。同書は2010年本屋大賞第二位となり、映画化された。