ああ、これもドラマ化されてしまいました。
「あなたは、常々言っていました。字とは、人生そのものであると。」
もしこんな代書屋があったならば。
ぼくはなにを彼女に頼むだろうか。
依頼人に成り代わって、送付先へ気持ちを忖度して手紙を書くというお仕事です。
ラブレター、絶縁状、天国からの手紙……。
鎌倉で代書屋を営む鳩子の元には、今日も風変わりな依頼が舞い込みます。
伝えられなかった大切な人への想いなどを依頼人に代わって書いて相手に届けます。
<目次>
夏 5
秋 65
冬 131
春 197
作家。デビュー作『食堂かたつむり』が、大ベストセラーとなる。同書は、2011年にイタリアのバンカレッラ賞、2013年にフランスのウジェニー・ブラジエ小説賞を受賞
ほかの著書に「サーカスの夜に」、エッセイに「これだけで、幸せ」など
19P
当時のことを思い出しながら、居住まいをただして墨を磨り始めた。
もう、硯から水がこぼれることもない。墨を寝かして磨る癖も、なくなった。
墨を磨る作業には鎮静効果があるというけれど、私は久しぶりに、意識が薄れていくような心地よい感覚を体全体で味わっていた。
眠くなるのではない。自分の意識が、どこか深くて暗くて底のない場所へ、ゆっくりと後ろ向きに埋没していくのだ。あと一歩で、恍惚の境地に達しそうだった。
134P
今日だけは、誰のためでもなく、自分自身の文字を書くのだ。代書仕事は、いろいろな人の心や体になりきって文字を綴る。自分で自分をほめるのもなんだけど、様々な人の字に憑依するのも、上手にできるようになった。けれど、ふと立ち止まって考えると、私は私自身の文字をまだ知らない。まるで私の体を流れる血のように、私そのものであるような、どこを切っても私のDNAがあふれ出すような、そういう自分の分身のような文字には出会えていなかった。
先代には、確かにそれがあったと思う。私が台所に貼られた先代の書き残した標語を剥がせないのは、そこに先代がいるからだ。文字の軌跡には、いまだに先代の息吹が刻まれている。
