この物語は、ゆっくりとあまり盛り上がらずに、淡々と進んでいきます。
一人の青年がピアノ調律師としてが迷いながら揺らぎながらも、愚直に歩んでいくからこそ気持ちに共感でき、そして、この羊と鋼の森の世界にも素直に没入できました。
ここちよかったわ。
心穏やかになれましたね。
魅了されましたよ。
情景が臨場感あふれる平易なことばで紡がれていて文章はとても美しかった。
ピアノ調律師の視点で語られる目の付け所がいい!
繊細な人間味ある想いをちゃんと理解しているように感じられる。
やはり、これは、みんなに読まれる本だよな!
◎1967年福井県生まれ。「静かな雨」が文學界新人賞佳作に入選、デビュー。著書に「スコーレNo.4」「誰かが足りない」など
◎48P
音の粒がぱっと広がった。くるくるっとした曲だった。何という曲なのか知らない。ふたごたちはいきいきとしていた。黒い瞳からも、上気した頬からも、肩先に垂らした髪の先からも、生きるエネルギーが立ち上がるようだった。そのエネルギーを指先で変換してピアノに注ぐ。それが音楽に生まれ変わる。たしかに楽譜があって、そこに必要な音符が置かれているのだろうけれど、奏でられる音楽は完全にふたごたちのものだった。今ここで聴いている僕のためのものだった。
「素晴らしかった」
力を込めて拍手をした。
素晴らしいという言葉だとか、拍手だとか、僕からはそんな音しか出さないのが歯がゆい。こんな言葉で、こんな拍手で、今のふたりの演奏を称えられるとは思えない。
◎80P
板鳥さんが立ったまま両手でオクターブを鳴らす。
風景だったピアノが呼吸を始める。
ひとつずつ音を合わせていくうちにピアノはその重たい身体を起こし、縮めていた手足を伸ばす。歌う準備を整えて、今にも翼を広げようとする。その様子が、僕がこれまでに見てきたピアノとは違った。大きな獅子が狩りの前にゆっくりと身を起こすようなイメージだろうか。
ホールのピアノというのは、別の生きものなのだ。別、としか考えられなかった。鳴る音が、これまでに見てきた家にあるピアノとはまったく別。朝と、夜。インクと、鉛筆。それくらい別のもののようだった。
