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負ける建築

最近昔読んだ本をもう一度読むことを平行して本読む事にしているんだが、隈さんの負ける建築についてスッキリしたのでそれについて書こうと思う。 2年くらい前に読んだ気がするんだけどあんまり面白くないと思っていた。印象が薄い感じだった。だけど今読むと意外と面白い。そして意外に難しいことがわかった。負けるということは単純に弱いとかそういうことではないのですね・・・。 本文中に負けるという言葉はそんなにでてこないんですね、注意して読んでみると。最初にこんな建築が良いんだーとか書いてるけどわかりやすすぎて読み流ししてしまうと思う。全部一通り読んでからはじめを読むといいかもしらん。自分的に、{負ける建築}って{閉じる建築}なんだなーとおもった。その閉じる過程をずーっとかいてある気がした。建築的だけにとどまらずに、哲学や経済や歴史を引用しながら。


負けのレトリックが尊ばれるということは、共同体が閉じたということでもある。(文中)


ここが結構重要だなと思われた。微妙な差異というか、叩きあうような雰囲気ではないというか。つまり社会的に閉じるということと、建築のもつエンクロージャーとしての性質の重層が重なって、今の現状が生まれたんだと。だからせめて建築だけでもエンクロージャーとしての性質、切断されたものとは異なるものをつくりたいということなんだなと。最近の伊東さんの(座・高円寺)があるけど 敢えて閉じる とあったけども建築の開くとか閉じるとかって論じても結局セキュリティーによって閉じてるでしょと思うのは私だけか?あのスケール感は体感しないとわからなそうだし、小さいけど大きく感じるから。フォーリーや廃虚なんかは開いた建築?物質?だと思うけども。石上さんとかは凄く開いていこうとうう感じがするけど。今までにはない建築のフレームの設定をしていると。何かを犠牲にしていると思うけども。 さらに、あくまで建築は物質だとし、村野さんを引き合いにだし、自分は唯物論者であるとの意思表明にもよみとれる。建築は物質だ!的な感じ。でも隈さんは昔からいろんな材料つかっているからまぁ特になんもへぁーとかはない。 まぁ、負けるとは閉じるということなんですね。それにしてもなかなか各章が切断されてて、建築的でした。日本の建築とか閉じてるのが普通なんだから、人間の社会が変わったとしかいいようがないなと、つまりは建築は人間に対応してないということが透けてみえる。