チャペルから
チャペルの課題の作品を考え直しているのだが、五十嵐太郎のいう”結婚式教会”というのは否定できない側面があるのではないのかと思う。というのは建築家はこれまで象徴性を排除してきたからだ。表象性についてはガラクタをいっぱいつくって資源の無駄づかいをしてきたと思うわけだが。ポスト・モダン建築とか。私はそれを絵画的建築と思うのだが、やたらと意味を求めた。結果へんてこりんな、下手なマニエリスムな建築がうまれてしまっていると思う。話を戻して何故否定できないのかについて述べたい。自分が思うにあれは象徴性をもった建築の一つのあり方の回答として正しいと思うからだ。それが良いか、悪いかは述べれないが。象徴というのはある意味を表現すると同時になにか行為や集団性、共同性を表現するものだと思うわけだが、先ほど述べたように表象はそうではない。じゃあどんな象徴性があるのかといえば”結婚式教会”は西洋的なイメージを表現するとともに、結婚するという行為、茶室のような一人称複数的世界、出来事を表現しているものだと思う。それは絵のもつ表象性とは全く異なるものだと思う。しかし何が問題かというとあれが都市空間につくられないこと、と同時に建築自体に象徴性を持たせようとする根本的な考え方だ。ある種あの記号もしくはシステムが都市空間に入れないということだ。結果郊外にバンバンたつ。ラブホテルのように。思うにそもそも教会は都市空間のなかでみると似たようにつくられているけど他とは異なる違和感があるのではと。お寺にしても昔は町並みと同化していて少し違和感が与えられていたものだと思う。これが非常に重要な建築的操作なのではないのかと思い着目している部分なんだが。だけど現代の日本のような都市空間はある種統一感があるともいえるけど異質の塊でもある。お寺が浮くのも空間の構造に起因しているのだが。周辺の建築物は変化したけど、神社やお寺は何故か進化してない・・・。これもおかしいことなのだが。みんな建築自体に象徴性をもたせようと建築自体に操作を加えているがそうじゃないのではと。違和感を与えることに着目しているとかいたが、単純に周辺環境から似たようにつくるけれども全く異なるものを生み出せないかと・・・。逆説的に象徴性を与えれたらなぁと、「異化」もしくは「転調」という操作をここでは根本にしていることは間違いない。やはりまだ上手く言語化できてない・・・。