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石上純也さんから建築の風景化について考えみた

すこし遅れますがJAの特集で風景なんてキーワードがくまれていましたが自分では何で風景なの?とつくづく思っていて、単純に建築を風景にしたところで何になるのか疑問に思っていました。そんな疑問を持ちながらも”空虚”、”離散”という現象に興味が湧いてそれをアイデアの根底においてコンペに臨んで作品をつくりました。それとともに作品を大幅に変更したいと思い作品をつくりながら並行して本を読みあさっているこの頃なのですが、フッサールに代表される現象学というものがあります。簡単にいうと、現象学とは日常世界を自分なりに考えてみるようなものだと思うのですが、建築的アプローチに非常に近いと思うわけで(卒業設計とか・・・)かなり親近感が湧きます。例えば何で住宅はあんな変な開口部の空き方をしているのかとか(?)。

ところで現象学はおいておいて建築の風景化について自分なりにアプローチしてゆきます(これもある種現象学に近いものだと思う)。人がイスに座るというシーンを想像してほしいのですが、ここではこの人はイスというモノとの間に行為が生まれています。そしてイスに座るという意味が生まれています。ここで二つのレベルが存在しています(このときに私が人をみています)。Level1では人とイスというモノの間に行為が生じていること。Level2ではそれを座ると意味づけしていること。これをユクスキュルという人は作用像と知覚像といっており、生物の環境認知は、知覚世界(意味付け)と作用世界(行為の発生)の統一体といっています。これはアイデアからデザインにもっていくときにやたらとこれはどう意味なんだろうと頭を悩ます現象になってあらわれていると思います。そんなに意味を求めても意味なんてないんじゃないのかという人もいますが・・・、むしろ何をするものなのかと・・・。先ほど述べたシーンというものは出来事ですが、出来事というのは建築から、形から生まれるものもあるかもしれませんがむしろ何もないところから生まれるものに非常に近い。何もないというのは誤解があると思われるので場所のようなもの、環境のようなもの。例えばゴミ置き場や外での喫煙時などが良い例かもしれません。出来事を生じさせるために場所をデザインしてゆくというのは景観から風景へと移行していることだと思うのです。景観というものは静的でパースに非常に近く、つまらない。シーンが固定的であると思うのです。日本の風俗画などと見比べてみると非常に面白いのですが、日本の風俗画はシーンが一杯あります。非常に動きがあり、出来事に私が入り込んで楽しむ事ができます。このとき様々な要素との間が見えてきて私はそれに意味を与えていると思います。かなりわかりにくと思うのですが前提としてこのような話があります。これを踏まえ建築の風景化について述べたいと思います。

上述で出来事がでてきましたが、少し前に先輩が石上さんはダイアグラムを書かないよね、っていっていました。ダイアグラムは建築的な操作を行っているのを簡略化したりするものが一般的に想像されると思うのですが、ダイアグラムの主役はモデルです。先ほど出来事は形に依存しないと述べました。つまり出来事を生じさせようと考えるならば必ずしもモデルはいらない。むしろモデルのほうが非常に弱いほうが良い。これは日本の風俗画を見れば一目瞭然だとおもうのですが。建築はハリウッド的な背景ではなく余白的な背景になりさがっている。だから建築的操作はほとんどない。仮にあったとしても、もっと弱いものに拘束力をほんの少しもたせるようにして空間をつくりあげている。だからダイアグラムはでてこないし、むしろ出来事のみを描いている。シーンの意味を発生させるような絵を。それらが集まる事でシーンの連続感生じてくる。すると日本の風俗画のように出来事が様々な場所で発生してきて、このときに風景をゆうゆうとびこえゆくと思う。出来事はつくられるものではなく、あるものに非常に近い。こうみると石上さんは非常に日本らしいし、それを隠してわかりやすく詩的に見せているところがニクい。このように考えると神奈川はミースの古典化にむかったナショナルギャラリーの問題を、環境をよみとき日本らしく風景として解いたように思えてきてすげーとしかいいようがない。と思ったこの頃。

結局、建築の風景化とは出来事化なのかも。