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久しぶりにブログかきます。9月~ほぼ三ヶ月くらいで論文しあげたのはかなりしんどいものでしたが、やりきると何故か達成感がありました。感想は結構、言葉遊びみたいなところが戦略的でおもしろいなぁと思いました。ただ非常にしんどいのがネックでした。
そのせいあって、最近はろくになにもしてませんがちょっと読んでみた本を通して思ったことをかいてみたいと思います。タイトルは”要塞都市LA”といい、社会派的コンテンツのつまったものになってます。アメリカのロサンゼルスに場所(都市的)を絞り、ヒストリーをつづったものです。基本的に、ルフェーベルのいうような空間性でロサンゼルスを捉えていて、よくあるアーキテクト目線(ベンチューリのラスベガスとか)ではありません。ざっと読んでみたかんじでは、ラスベガスではユートピアとデストピアがごちゃまぜにいりくんでいるということを述べていてそれは何故かというと、お金をもった権力者たちはニンビー的で、欲望と戦略でトップダウンにひろい意味でのユートピアを狙った結果である、ということが様々な視点でかかれているものとなっています。文章は結構くせがあるものになっていて、わかりやすくはないものになってます。おもしろいなとおもったことを一つ紹介すると、自分の場合は高校で地理を選択していたわけで「スラム」と呼ばれるものが都市には生じているとかと習ったわけですが、何故かについては住む場所がないからだとその時は習ったのでした。その時はとくにそうなんだと思っただけでしたが、ここではなんとかいてあったかというとホワイトカラーのコミュニティをデベロッパーが与えたり、市長や警察が意図的に自分たちのユートピアをつくろうとした結果であるということだったのです。自分にとって、今挙げた一例のようにそのような鋭く空間性に切り込んだ視線というのは熱湯を頭からかけられたわけで、いかにぬるいお湯につかっていたかきづかされたのです。
で?っと思われる人も多いかと思いますがこのような捉え方は、アーキテクト目線の複線として必要だなぁということです。また例を挙げますが、「community/コミュニティ」という言葉がもつ意味的なイメージがあります。これらを自分は’言語イメージ’になると思うわけでここでは仮にそう呼びます。普段から他文化の比較をしていないせいで自分のなかではその言語イメージ(基本的には意味をベースとした)はなにか地域の人々が物理的なものによらず縮小された距離感の集合のようなものを経験的に想起されるのです。daiwa4のコンペのアイデアも根底にはこのようなもの想像していますが、相対化されている現代では距離感の無限化によって人々は集合しなくなったのではないか?だから絶対的な大きなフレームで象徴作用をもたせ、新しいコミュニティとするところがおもしろいと思われるのです。しかしながら”LA”では「コミュニティ」というものは物理的で絶対的な差異化されたものとして捉えれるのです。これは明らかに自分のもっていた言語イメージとは異なるものでこんなふうにもありえるのかと思われるわけです。この言語イメージのズレが非常におもしろいと最近は感じており、単に文化の違いとはいえないところがまた良いのではないかと思うのです。確かに文化も含まれるわけですが、重要なのは経験が大きく作用していることです。そしてここから大きく跳びますが、これは言語イメージだけではなく、ものごとを捉えつくりあげる価値体系(なにかを良いとするときの自分の基準のようなもの)形成に深く関わってくる。そしてそれをもとにまた何かを吐き出すときの、その瞬間の価値体系に反映されてくる。最終的に両者の循環があり、ループしていく。自分はこれがデザインだとベースであるソースのようなものであると思っていて、その中の一つに言語イメージがあると思うのです。話がづれれてきたのでもどしますが、何故複線が必要なのかというと何かを捉えるときに経験と理屈を共存させていくと異なる方向や違いが得られるのではないのかということです。単純にものをみるのでは駄目なんだなとつくづく思ったわけです。