NYから学ぶこと #1 星座のような粗さ
そんなに長い間いるわけではないのでピクセル的なことしかわかりませんが、少しだけ思ったことをまとめたいと思う。
セオリーについて、建築について、あるいはもっと都市的なことについて。
それはもちろんベンチューリのラスベガスから学ぶことというものがありますが、ここではそれについては関係はありません。
まずはじめに、自分がここにきて感じたことというのは、ものごとがとても 粗い ということ。これは日本と比較した場合のことですが。
コールハースのS、M、L、XLという考え方があります。これはプログラムというものも含まれていますが、日本にいたときはあまり実感が伴わなかったことがすぐに感じられる。
ただただ大きいということ。それは、座りがあって、徐々にセットバックしていき、空につきでるかたち。
フューフェリスのレンダリングのようなものがそこらに見られる。
人のスケールを超えたところで人の居場所が生成されている。
それは錯乱のニューヨークの中でコールハースは資本が無機質な都市をつくりだしたということであり、それは資本によってある制約を受けながらできあがったということ。
しかしながら、単純に無機的かというとそうではなく、地上では沢山の人々活動がある、と同時にそのような活動に適した場所というものも少しながらみられる。
そのような適した場所というのは、3,4階建てのビルであったり、小さな公園であったりするものです。
そしてこれが都市の中で摩天楼と対比的な構造を生み出しており、効果的な印象の違いを生み出している。
その個々のものはみなバラバラではあるけれども、どことなく建物同士似ていたりするようなところもあったりすることによって、なんとなく抽象的な印象を生み出している。
というふうに思うのです、ただなんとなくでしかわからない、切断されていないということ。
それはまるで星座の如く。
また建物やものごとについても粗いということがいえる。
これは建物の細かい部分のつくられかたというのが粗いということである。
仕上げの塗装がパテで盛り上がっていたり、水周りがダイナミックになっていたり、窓が自重で勝手にしまってしまうとか、きりがない。
こちらの施工会社はニンビー的な発想らしく、別にきれいにやらなくてもいいという、ことが関係しているらしい。
かといって粗くないものもちゃんとあるわけで、ピアノ設計のモーガンミュージアムはかなりきれいでした。
基本的にプレファブなので組み立てるだけというのもあるかもしれませんが、ディテールとかかっこいいです。
そのあたりでも差がすごく際立っているということ。
そして、この建物の粗さに加えて、食べ物やデリ、地下鉄の駅や電車、タクシー(シートベルトは必ず付けたほうが安全です、普通に事故る確立高いです)、後は胸(何故かは知りませんがアベレージとしてのヴォリュームが)、など基本的にものの存在している状態というのが粗い。
ここでは、ものごとが雑であったり、大きかったり、というようなことを含め粗いんです。
つまり、ある物理的なものが粗いという状態にあって、それらが集合することで総体として、さらに粗いといことが生まれるということ。
いいかえれば、いろんなスケールのものが粗い状態で構成されてくることによって、純度の高い粗さというものが生まれているということである。
そのような関係がNYという場所にはあると捉えることができると思った。
Pablo Picasso/Woman with a Guitar や 草間彌生 のような絵画の静的な動性のようなものである。
ただし、これは 東京=首都 的な発想の抽象化とは異なることであり、あのXLというのが如何に物理的なことだけを示していないのではないかということ。
これらがNYでの体験を通じて感じたことである。
グローバル化が叫ばれる現代ですが、最近はもっぱらその概念について非常に怪しいと感じているんですが、というのも思うにそれは単純に現代を表象するキーワードとしてみんな使っているにすぎないと思うからだ。
一人の人間がフィジカルにそんな状況を把握することはできるわけがない、このユビキタスといえど。
単純に定評があるからでしょう、普通にとなりの芝は青くみえてしまうんです。
でなければイキルことができないから、これが情報化の作用と反作用の関係だ。
で話を戻して、NYは粗いといえるのではないかということですが、この仮説の根拠というのではないが、いまここで Isamu Noguchi を思い起こして欲しい。
私は彼の彫刻がとても大好きなものの一つなんですが、特に彼の後期の作品であるEnergy Void、Geode、Heart of Darknessというものが感覚的にいいと感じるんですね。
何故か。
好みの話はおいて彼のこれらの彫刻というのは粗いこと細かいことが共存している。
それはごつごつとした表面とツルツルの表面が同じ表面にある、または一面が黒い表面と一面がくろっぽい表面が同じ表面にある、一面が加工してある表面とまったく加工していない表面が同じ表面にある。
そしてそのような表面が同じ一つの表面としてたちあがっている。
これが彼の作品の後期における一つのスタイルであり、多くの人々に感動を与えている。
イサム・ノグチは日本と米国でものをつくった人であり、そんな二面性が作品にもあらわれているのではないかということ、その作品が特に後期に色濃くでておりNYの粗さに通じるのではないかということ。
というのは先ほどNYの粗さという話をしましたが、この粗さというものが彼の加工したり、ごつごつにしたり、過度にものをなぶるというところにリフレクトされていると思うのです。
なぜならば過度に加工するというのは、アメリカの開拓文化であり、自然は征服すべき対象なのであり、刺身を頂く食文化がないというような、文化的側面の特徴だからです、と同時に日本的な側面もしっかりとリフレクトされているわけなんです。
そして少し趣旨とはずれますが、彼が彫刻で表現したかったものとは二つの国で引き裂かれてしまった、例えば広島のパスポート事件、身をおくことができなかった彼自身の魂のようなものではないでしょうか?
というのは彫刻に二面性があり、その関係は いし とは 墓標であり、柱であり、ピラミッドだからである。
京都に化野念仏寺という山奥にある寺があるんですが、ここへ訪れたことがないかたは機会があれば是非一度いかれてみてください。
何故私がそういえるのかなんとなく分かっていただけるかと思います。
あのランドスケープには現代建築なんか小粒なものです。
まさに変わらないものが世の中にあるのは人間が生きているからなのでしょう。
今回は粗さということを伝えたいために、テキストを増やし、ウォホールみたいにして、ブラーをかけてみました。
しかし伝えたいことは単純に 粗い ということです。
誤字脱字があったらすみません。
ちなみに今日はアメリカの独立記念日です。