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NYから学ぶこと # 2 ゴミすてば



前回はNYという場所に対しての印象についてupしました。

今回は前回のイサム・ノグチからの流れを受けてアートに関することを書きたいと思います。



NYでアートと触れ合う場所は大きく分けて2つあります。


ミュージアムと呼ばれる大きな美術館とギャラリーと呼ばれる小さな回廊(これは個人的に小さな美術館だと思い

ます)です。



以下はこれらの特徴についてなんですが、まず初めにミュージアムの場合は入場料というものがかかってきて基本的に10~20$くらい払って鑑賞できるんですが、ギャラリーにはその入場料がありません。

これは料金的にメリットがあります。

私のようなお金のない人にはありがたいことですし、作品を購入する方にとっても良いことだと思います。

そのかわりに作品数は多くありません。

また、ミュージアムはしっかりとしたフローというものがあって、何も考えなくてもただそこに行って受け入れればいいのですが、ギャラリーにはフローがなくて自分で何をみようか考えたりして次のギャラリーへ、そしてまた次のギャラリーへといくことになるのです。これは、箱の中にお菓子が入っているのか、それともお菓子は箱の中にあるのかもしれないということです。ところで、アートをみるのにフローなんていらないよ、という人もいるかもしれません。そのような考え方はフローという、プランニングの否定をしているようであり、近代が計画であったことに対する現代の個人ということへの変化、アナキズムの余韻のような気がします。



さらにはコンテンツの違いが挙げられ、


ミュージアムの場合は企画展示と常設展示をずるずるとみていくルーズな状態をキープしているのに対して、


ギャラリーは企画展示のみというショットのような状態でしかありません。



これらは両者のソフト面についてなのですが、ハード面にも少し触れたいと思います。


なぜならば、そうすることでその両者の構造が徐々に浮き上がってくるからです。



まずはヴォリュームですが、

ミュージアムの場合、

「ドカーン」としています。

LとかXLくらいになりますが、

ギャラリーの場合、

「プチッ・・・プチッ・・・」としていて、

XSくらいです。

あたりまえかもしれませんが、

これはスペースを構成する最小単位の違いと同時にそれらの集合している状態の違いからきていてます。



ミュージアムは大きな部屋が積みあがってできていますが、ギャラリーは小さな部屋が集合したり、独立してできているのです。例えばメトロポリタンミュージアムのように何ブロックにまでまたがって建っているものがあったり、アゴラギャラリーのように一つのビルの中に様々なギャラリーがセルのように入っていたり、路面店のようなギャラリーがあったりするのです。


その上に、ヴォリューム同士の関係についてですが、ミュージアムはそのヴォリュームが大きいためそれぞれが隣接する関係にはなく、街の中に「ポツポツ」と点在するのですが、ギャラリーは街の中で「グシャ」と密集している関係にあるのです。例えば、ミッドタウンとチェルシーのようなものです。


だからギャラリーのオープニングパーティーの時には、ある地域がまるでお祭りがおこなわれているような状態のポテンシャルをもちうるわけです。


これは町屋のお神輿が通る目抜き通りと似た出来事で、スポンテーニアスな状態のようであり、これがまた良い場所をつくっているような気がします。


見知らぬ人ばかりなので負けの原理が発動していました *。*



アートのある場所というのは、それぞれ以上のような特徴をもっていて異なる構造があるように思われます。


両者の構造の違いについて抽象化するならば、ミュージアムというのが近代的な大きくまとめることであり、ギャラリーというのは現代的な小さくまとめるということではないでしょうか。


アートをみる場所といえど、トップダウンな近代とボトムアップな現代という構図がみえてくるのではないでしょうか。



ところで、

このミュージアムとギャラリーの関係というのは、

たとえていうとするならゴミをすてることとだと思う。

なぜならば、

ゴミをすてるときは小さい袋に沢山入れて、

さらにそれらを大きな袋にいれたり、

さいしょから大きな袋にいれていったり、

また分別もせずに入れたり、

あるいはそのままゴミを道にすてたりと。



だからミュージアムとギャラリーはどちらも同じゴミすてばにはかわりないんですが、小さな袋にゴミをわけて入れておくか、大きな袋にゴミを入れておくかによって違いがでてくるわけです。

ここから抽出できる重要なことは関係は同じなのにスケールが変わると関係から生まれる効果も異なるということであり、それと同時にものの集合のしかたの違いが生み出す効果も異なるということだと思う。



ゴミすてばには変わりない構造なのに置換するだけで全てが変わってみえることは、デュシャンの泉のようであり、きっと社会?にはそのような転化するときに生まれる面白さがあるような気がします。


だから人は絶えず変化を望むのではないでしょうか?そこには目的のある発展性があればなおいっそう良いのではないでしょうか。


音とういのはほんとうに不思議すでね。