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NYから学ぶこと # 4 はつゆめ


岡崎乾二朗から

靴を脱いで上がるということは日本人の本来の身体の特性でもなんでもない・・インフラ(下部構造)があることによって出来事がフィジカルなものとなる。そしての出来事が、そういう物事がある(あった)、身体がある(あった)という制度を初めからそうであるかのように作り出してしまうのである・・・」



上野千鶴子から

「むしろ伝統には地域や階層において多様性があり、歴史はその文脈が変わるたびに、多様な文化マトリクス(母胎)のなかから、時代に適合的な文化項目を、「伝統」として再定義するという営みをつづけてきたと考えるべきであろう。従って「伝統」として生きつづけたものは、時代に応じて変化を経験してきている。「時代を超えた伝統」などというものは存在しない。ただあるものを「伝統」と名づるイデオロギーだけが、「伝統」の起源を隠蔽するのである・・・」



和辻哲郎から

「同じ民族・時代にあっても美意識極端に異なる建築が共存することが理解されよう・・それらを美しいとか結構とか感じない人々はうまれてこないだろう・・日光廟(あらゆる技術を注ぎ込んで美を積み重ねることによって最上の美が作り出せると考えた態度によって作られた)と桂離宮(できるだけ装飾を捨て、できるだけ形を簡素にすることによってかえって最上の美が現れるとする態度によって作られた)について」


最近思ったことが、普遍的というのは不変的ではないのかもしれないということ。


よく人は何か軸がなければいけないといいますがそういう考えに対して違和感がある(あった)から。結果的にその人にとったら、それは一本の軸になりうるかもしれない。だがしかし、人は日々様々な選択を行っているわけで、そこに明確な基準などなく様々にものごとを選択しているのであり、それは人間様のご都合主義に縁っているのであって、そうやって生きている人が、軸とか筋とかというのは滑稽なことでしかありません。インフィニティなセミラティスの構造に対して一つの道だけ色が塗られていればそりゃ確かに一本になるかもしれませんが、それでは超越論的ではないのでしょうか?



人生なんてものはパラメトリックなものといえば現代的でしょうか。それに軸のようなものがあるとしたら、それには始点があって終点があるわけです。始点も終点もなかったら?それは軸とはいえないでしょう。それは唯のご都合主義だ。そもそもこのような考え方というのは近代的なものの捉え方ではないか?丹下健三さんが軸、軸、といっていた時代。一点に向かうという、それが前衛であるというものの考え方。そんなものはもう滅んだのです。そう磯崎新の「再び廃墟になった広島」のように。あれは近代的自我が都市スケールで展開されたというレベルにおいて、戦争と輝く都市などが同レベルのものであり、それは罪になるということだと思います。


人間様のご都合主義によってものの見方というものはその都度、変わっていくのであり、更新されるわけではないということ。だから戦争は繰り返される。


したらば建築家(日本の多くの)という存在も変わりうると捉えることが可能になる。というのは日本の建築家はいまだにモダニズムの建築家と同じようなことをしている人たちが非常に多いように感じるからです。


何故か?



そこで先に引用した和辻哲郎のテキストにかえりますが、建築は単純美でもあり複合美でもありうるという、全体の見た目の問題について言及しています。思うに、むかしから如何にかっこよく建築をつくるかというのは普遍的であると。そのために建築家は存在していたといってもいいかもしれません。しかし、現代の日本の建築家はどうでしょうか?単純にそのようなことを追求している建築家はいくばくかいるのでしょうか?五十嵐淳という建築家がいるのはご存知だと思いますが、昔彼が僕に言ったことが、

「新建築を過去30年間分くらいみれば十分だよと。」

そんな彼がつくっているものというのは美学的に洗練していこうというものでもなければ、工学的に建築を発展していこうとするものでもないようにみえる。学生の卒業設計のような、誰かのアイデアを盗んだようなものとして、ある種フラットなポストモダンといえばいいのでしょうか。そのような短い目でしか建築を捉えていない、歴史に対する参照というものがない、ただ自分が面白いと感じるものをつくる、そしてそれらをメディアにたれ流し、学生にはこうこうという、というようなスタンス。単純にこれは建築家という職業の本来の姿なのかということ。これは五十嵐さんを批評しているのではなく、その多くがこのような状態ではないのかということ。このままの姿を鵜呑みにしていくことに対してどうなのかという、これは問題意識です

 また佐々木さんのように流体構造といった建築の可変性に挑戦しているわけでもない。コンピュータを使うことで、最適化することで建築の可能性に挑戦しようというわけでもない。なぜならば情報消費社会においてはみための形というのはどうでもよいから。iphoneの形とiphoneアクティビティーの多さは関係してないことからもそれは明らかです。


日本の建築家の多くが建築の美的な部分を探究しているのでもなく、工学的な部分を探求しているのでもない。見方をいろいろ変えたところで、最終的には一体彼らは何のために建築をしているのかよくわからないと感じるようになりました。同じような箱しかつくらず、おなじようなことしかいわず、アイデアだけをプッシュし、ポエジーでしかない。



このような考え方というのは、自分が今までメディアにどれだけ影響されたのかということを露呈することになりますがそれはかまいません。だからといって今の私にはできることが何もありませんが、藤村龍至さん及びにRAJの活動には支持したいなぁと思います。情報消費社会では形は必ずしも重要ではないと思えるようになったからです。