lamination -67ページ目

tokyo



久しぶりなブログを更新する。最近おっくうで、というより考える暇も無く日々過ごしたので何も整理されることが

無かったのである。コンペしてフォリオをすくってオープンデスクと。そんなあいまにかろうじて文学作品の一つや

二つ読むことができただけである。そして実家で一日引きこもり名古屋へと帰ってきたのである。

 久しぶりに東京に行ってきた。今回は渋谷、原宿そして六本木のメガストラクチャーの周辺を散策した。そこから感じたことをつれづれなるままにかこうと思う。

 東京がカオスだなんて時代遅れもはなはだしい。(最近言われなくなった)カオスとして記述されたものの、カオスという一語で東京を語る所以は私にはわからない。都市を表象するために言語を用いることがそれ程効果的ではないから。東京駅周辺は洗練された巨大建築が20世紀から21世紀への建築を橋渡しし未来を彷彿とさせる。コルビジェやフェリスのドローイングのリアリティーがしだいに明るみにでてくる。ミッドタウンが顕著である。よく言われることだが東京タワーはビル群の中で形態の差から目を引くのみである。ミッドタウンは一つの街として完結している。完全に人為的に制御されている。造られた景観が人々に潤いを与え、その場所で価値を見出そうとしている。確かにあの建築には圧巻である。巨大さでもう他を圧倒している。まさにビッグネスである。都市が個々にスプロール化(地域事にその場所性は必要におおじ選択され追加と削除を繰り返すのだろう)し、最小単が巨大建築という時代がそのうちに到来しそうでもない。変な妄想をしてしまう。混沌を抜け出すべとして人為的制御を選んだのはどこの誰だろうか?表層に見え隠れする動かしがたいものは恐ろしいものである。建築家一人にできることなど都市というものを相手にしたら終焉を迎えるしかないのかもしれない。あくまでもそう考えると建築はつまらないものである。


しかしながら猥雑とした感じは原宿に見られ日本ぽい。客引きや肩を寄せ合い集まる店舗など。個々でみてゆくとキリがないようであるのである。それを省略したものがカオスなのではないだろうか?カオスといえども法律によって生まれた街なのだからそういう表現は面白いものである。あくまで80年代を生きた人ではないため経験的なコンテクストは欠落しているのが痛いところである。人々はそこに何か目的があるわけではなく唯その街に行くのであろうか。しかしながら秋葉原の電気街とよく似ているのである。種類が異なるだけである。また建築の高さや歩行空間の違いも挙げられるであろう。そのような深層が表層に大きく影響を与えているというのは明らかでありそれが街の違いになっていると思う。東京は非常に面白い。ヒエラルキーが上から下まで存在していて喋り方や表情、振舞い方により微妙な差異が目にとれるであろう。例えばカフェの種類からそこに滞在する人々のカテゴライズをしデータをとりそしてそれを建築に落とし込むという手法も東京ならできなくもないだろう?ただそこにできあがる空間は建築たる所以が欠如していると思われるから、そこは建築を学んでいる者の腕の見せ所であろう。

そもそも建築たるものは感覚を刺激すると非常に思う。その空間を想起し図面で勝負する実施設計は非常に困難なものであろう。また竣工まで持ってゆく建築家のエネルギーに対して支払われえる価値が低いというのは何か動かしがたいものが存在するからなのだろうか?感覚と建築は私は文学に通ずると思うのだ。工学部だからというのは表層に縛られているだけではなかろうか?決してどちらが良いということではない。単純にさ迷い歩いているだけなのである。まだ決めるには早すぎるから。方向性としては文学的工学という名前が良いのだろうか?ベターな名前でセンスがない・・・。若山滋の影響が無きにしもあらずであり。滋氏の処女作には建築たる所以の塊みたいなものが存在していると思い、一度は訪問したいものである。時間とお金が許す限り。建築はブラックホールは存在するがホワイトホールは存在しているかどうかわからないという事に似ているから面白いのだろう。