【3】 4つのピアノ曲 作品119
作品117の章でも引用しましたが、1893年にブラームスが
「あなたのためにちょっとしたピアノ曲を書きたくてたまらないのです・・・」
と、クラーラ・シューマンに宛てた手紙の中で作品119-1について、
「その小品はことのほか物悲しい曲で、『非常にゆっくりと』と指示するだけでは足りません。
どの小節も、どの音符もリタルダンドに聞こえなければならないのです。
あたかも欲求と満足をこめて、あらゆる悲しみが搾り出されているかのように!」
と書いていたとのことですが、「欲求と満足をこめて・・・」とは如何なる様を言うのでしょうか?
作品番号119-1について書く前に、ちょっとばかし思索してみたのですが、「欲求」と「満足」を相反する二極という空間的、物理的なとらえ方を限り、この言葉の真意は汲み取れそうにありませんでした。
そこで、形而上学的に思惟した結論について、以下に書き記してみました。
単なる思いつきに過ぎませんので、どうぞ、読み飛ばして下さって結構です。
こう考えてみました。
「欲求」とは、一般的に、それを「満足」することによって得られる人の「幸福」にとって、「種まき」と言いかえることのできるものではないだろうか。種には育って実をつけるものもあれば、成長の過程で枯れてしまうものもある。育って実を結べば「満足」が得られる半面、枯れてしまったものからは「悲しみ」が生まれる。
しかし、その「悲しみ」を恐れるあまり「欲求」を抑えてしまっては「満足」を得ることもできない。
しかるに、「幸福」を得るためには、人はひたすら「種まき」にいそしみ、恩恵とも言える「満足」を享受すべきである。その二つに励むことによって「悲しみ」を心から追い出すことができるのである。ここに至って、ようやく搾り出された「悲しみ」の質が現実味を帯びてくるのではないか。
「種まき」を「信仰」ととらえれば宗教的にも解せるし、「満足」を享受するという点に主眼を移せば、ニーチェの「超人」のようなものと哲学的に解することも出来る。ブラームスが無神論者であったという一般論をそのまま適用するならば、ブラームスがニーチェの「ツァラトゥストラ」に強くひかれた可能性も否定できない。さもなくば、人間の外にある「神」ではなく、人間の内面を懸命に見つめた末にたどり着いた自己流の哲学的解釈だったということもできる。
長々と退屈な話をして申し訳ありません。
ここから、ブラームスの書いた手紙の内容にもどりますが、心の中より搾りだされた「悲しみ」を汲み取るかのごとく弾かれなくてはならない、とブラームスは明確に言っているわけで、それを守ると、ぼくにはスティーヴン・コヴァセヴィッチしか選択肢がなくなってしまうのです。
さらに聴き進めると、第四曲の主題における打鍵の強さが、奏者によってかなり差があることに気がつきます。
「万感の思いを込めた」などと、良く考えれば、何だか奥歯に挟まったような曖昧な解説をされる評論家もおられる中で、ぼくとしては、この力強さの中に祝典的なものを感じます。
作品116から続いた一連のピアノ小品のフィナーレを飾るにあたり、焦燥感や怒り、憂鬱、悲哀それら全てネガティブなものを持ちつつも、それでも生きていくという決意表明であるか、もっと大局的に「人間賛歌」としてとらえることも出来るのではないか、と考えるわけです。
ならば、ここではエレーヌ・グリモーといったところでしょうか。
【4】 後期ピアノ作品集の総括
ブラームスの後期ピアノ作品集を何度も繰り返して聴きましたが、いずれのピアニストも素晴らしい表現者でありました。今回、選ぶ機会のなかったラドゥ・ルプーなども気に入っている演奏者の一人です。
しかしながら、改めてグールドの表現者としての能力や、コヴァセヴィッチの説得性は群を抜いているという感想を持ったというのが今回の結論です。
それと同時に、今まで名前だけしか知らなかったエレーヌ・グリモーというピアニストに出会えたことの喜びは何物にも代えがたいものでした。
グリモーについては、また、何らかのことを書くことになるでしょう。





