この作品の良さに気付いたのは、恥ずかしいことについ先日のことなのです。
アンドラーシュ・シフによる1988年の2度目の録音を通してでした。
強弱の振り幅を少なくし、右手と左手のバランスが仔細にコントロールされたシフの奏でる音は、非常にクリアで透明感に富み、鍵盤の上をコロコロと転がっては、こぼれ落ちる水玉のようです。
聴き手としては、この美しい響きの中に身を預けたくなるのですが、シフの演奏はそうした、聴き手が向き合おうとする行為を一切拒絶しているかのような印象を受けます。
つまり、己の解釈でもって聴き手をぐいっと引きよせ、陶酔感でもって虜にしてしまうというものとは全く無縁なのです。
むしろ聴き手と同じ方向を向いて、ただひたすらに最後の一音を目指して、薄氷を踏むかのごとく一歩また一歩と着実に歩みを続けるだけのようも見受けられます。
そうして訪れる最後の一音・・・・・・・
この響きが消え去った後に、もう一度頭から聴き直したくなる。そんな魅力にあふれた演奏です。
もちろん、こうした演奏は、聴き手との距離感が縮まらないため、一般的な受けはあまり良くないのでしょう。彼のこの演奏が批評家やアマチュア好楽家を問わず、真っ当な評価を受けているのを聞いたことがありません。
かく言うぼく自身も、8年間ほどこのCDを放置していたのですから、人のことを言えた義理ではありませんが・・・。
いずれにしても、今回の発見を通じて学んだこととしては
D935をD899(作品90)と同じスタイルで演奏することは必ずしも正しいとは言えない
ということでした。
巷間の意見と同じようにぼく自身も、両曲ともに不治の病に冒されたシューベルトの心境を焼きつけたような演奏が望ましいと考えてはいるのですが、ただ、D899とD935では時間的に大きな隔たりがあることは決して忘れてはならないと感じるのです。
この間のシューベルトの心境の変化はいかなるものだったか?
誰にも分からないことかも知れませんが、この違いを自分なりに掘り下げて考え、そのうえで表現しようと挑戦してもらいたいと切に願うのです。
そういった意味では、シフの演奏スタイルはD935の一つの理想形であってもいいと思える演奏でした。
D935にはD935なりの、D899とは異なった魅力があるのです。
できればD899とD935を1枚のCDに収録することはなるべくなら避けていただきとさえ思います。
そうして考えると、フリードリヒ・グルダがD899しか遺さなかったのは、そういったことも関係しているのかなとさえ思えてきます。ちょっと穿ち過ぎでしょうか。



