【ギーゼキング】1895-1956

この方に関しては、的を射た表現するのが難しいために、極めて抽象的に簡単に扱われることが多い気がします。その理由は、作曲家の指示をことごとく無視しているにも関わらず、奏でられた音自体は非常に躍動的で魅力にとんでいることにあるのではないでしょうか。ただ、それだけなら「グールドのようなものか」ということになるのですが、一人、曲と向かい合って綿密な分析に基づいた上での再構築を成し遂げるのがグールドという人であり、そこが評論家諸氏が賞賛する糸口となっているのに対し、ギーゼキングは、その場その場での霊感的なひらめきによるダイナミズムが大きな魅力となっているがために、評価の糸口がつかみにくいという現実があるのです。


「その場その場での霊感的なひらめき」が事実かどうか、ぼくには知る術はありません。しかしながら、ぼく自身はギーゼキングの演奏を聴けば聴くほど、ジャズのインプロヴィゼーションのごとく聞こえて仕方がないのです。

ほとばしる内的なエネルギーの塊を、観客と自分との対峙の中で、冷静にコントロールしていくことが求められる一方で、旋律自体は演奏者に一任されるのがジャズにおけるインプロヴィゼーションであるのに対し、ギーゼキングにおけるインプロヴィゼーションは、旋律はベートーヴェンそのままに、テンポとデュナーミクを完全に自分の支配下において、全身を使って表現しているかのような演奏です。自分に備わった歌心だけが唯一の手綱なのでしょう。これだけ大胆な演奏をしながらも全体としては見事にまとまっているのです。スコアを完全に暗譜する能力に長けたギーゼキングだからこそなし得た演奏ではないでしょうか。

また、それだけに、録音は一発録りのような形で行われたものと推察されます。録音レベルの設定がまずく、音が歪んでいるのもそんなところに理由があると思われます。


ベートーヴェンのピアノソナタと一口に言っても1番から32番まであるわけですから、いかに大家と呼ばれるピアニストといえど、その人の想いが32曲全てにおいて、同じような形をとって結晶化できているわけではないようです。ですから、ここに採りあげる一曲の聴き比べでもって演奏者の全体像を把握することなどは正直言って不可能だというのが率直な気持ちです。

しかしながら、ぼくがかつてそうだったように、

「ベートーヴェンのピアノソナタを聴こうと思うが、誰の演奏で聴けばいいか分からない」

といった方にとっては、こうした試みも全くの無駄になることはないと思うのです。ただし、そのためには敢えてぼく自身が贔屓にしているフリードリヒ・グルダを除外しなくてはならないでしょう。その上で採りあげるピアニストは、


シュナーベル

バックハウス

ギーゼキング

ケンプ

ギレリス

ポリーニ


の6名になりました。


【シュナーベル】1882-1951

1930年代の録音は、古いながらも今もって聴くに値するものであり、現代の演奏に最も影響を与えたと言っても過言ではないのではないでしょうか。

ここで聴かれる演奏は、まるで、太宰治が小説を書くということを、「一つの石の塊から像を彫り出していく」作業に例えたかのごとく、神経を研ぎ澄ませた非常に彫りの深い造形となっています。じっくりと腰を据えて聴いていると、心に重くのしかかってくるような重量感です。現代の卓越した技術でもって聴かせるベートーヴェンもいいですが、シュナーベルの演奏はそうした技術上のマイナス面を補って余りある表情豊かな演奏です。


【バックハウス】1884-1969

ベートーヴェンのピアノソナタを聴く際に、必ずと言っていいほど基軸にされるピアニストです。『鍵盤の獅子』という、まるでマンガにでも登場しそうなあだ名をつけたのが誰なのか非常に気になるところですが、それはさておき、この大家の演奏は、初めて聴く人にとっては、感情表現が希薄で冷徹な鉄面皮に映ることと思われます。しかしながら、バックハウスを支持する人の大半が、「かつて自分もそうであった」と仰るはずです。こうした現象の理由についてはバックハウス自身が語っています。


「年をとればとるほど、テンポ・ルバートや誇張したダイナミックはセンチメンタルで耐えられなくなる」

- 吉田秀和著 「世界のピアニスト」


もっとも、ここで採りあげた曲などは、まだましな方に分類されるのですが、それでも、他のピアニストと比べて無愛想に響くのは確かです。

だからといって、最初から聴かないと決めてしまうのは、それはそれで非常にもったいないことです。なぜならば、氏の演奏に聴くことのできる美しい音の一つ一つは、空気中にふわっと溶け込んでしまうような朧げな音ではなく、縁取りも鮮やかな色彩をもって屹立しており、聴く人の美意識にダイレクトに訴えかけてくるからです。

陰影一つとっても、シュナーベルのそれをレンブラントの絵画に例えるならば、バックハウスのものは、バルビゾン派の画家たちの描いた、自然が織りなす陰影に見立てることができるほどの違いがあります。

今回採りあげたピアニストの中では、ギレリスの音がバックハウスに似通っているとも思われますので、気になる方は、とっつき難いバックハウスよりはギレリスをまず聴いてみてはいかがでしょう。


【ケンプ】1895-1991

シュナーベルやバックハウスと同時期に活躍しつつも、その演奏はまた非常に個性的だったといえます。音の伸びを短く抑え、インテンポ気味に演奏することで曲の見透しが非常に良くなっています。それはまるで列柱が建ち並ぶ古代ギリシャ建造物を連想させ、シュナーベルやバックハウスから連想させられる堅牢な壁や幾何学的な柱の配置とは対照をなしています。極端な言い方をすれば、内部に大きな空間をもちつつも、外界との接触を拒んできたゴシック建築やバロック建築に対し、古代ギリシャ建築は外界との結びつきが大きな特徴であり、これはそのままケンプの演奏に当てはまっているのではないでしょうか。

肩肘を張らなくとも、自然とベートーヴェンの世界に溶け込めるようなケンプ特有の美的特質です。

ピアノソナタ全集が結構な安価で発売されていたと記憶しますので、ここから聴き始めるのも悪くない選択肢だと思います。


silverのブログ

ブラームスが青年期に作曲したこの曲ですが、


ピアノ:     ジュリアス・カッチェン

ヴァイオリン: ヨーゼフ・スーク

チェロ:     ヤーノシュ・シュタルケル


という、いずれ劣らぬ名手による演奏で聴きました。

それにしても第一楽章の弦楽器の絡みの何と艶やかなことでしょう。カッチェンのピアノも決して出しゃばらず、控え過ぎず、全体の骨格を支えることに徹することで、気品のある抒情性を紡ぎだしています。

この楽章には、「さあ、ここから始まるぞ」と言わんばかりの若々しさが漲っている一方で、20歳にして早くもブラームス特有の沈鬱さがかすかに漂います。


第二楽章は、民族舞踊的な旋律を唄わせつつも非常に個性的な出来で、続く楽章への期待を高めます。

ところがです、第三楽章のアダージョにはどうしても馴染めないのです。いつの日か、その良さが分かる日が来るだろうと期待しつつ、今回もまたダメでした。


そして最終楽章ですが、よく分からない第三楽章から目を覚まさせてくれるような出来で、ブラームスの面目躍如といったところではないでしょうか。ロマン派らしいというか、ブラームスらしい出来です。

ただ個人的には、第一楽章を受けるにはやや小ぶりに過ぎるかなといった気がしないでもありません。


正直言って、第一楽章だけ聴くということも多いのですが、それでもブラームスらしいこの曲は、いつもぼくを惹きつけて止まないのです。