この曲に関しては、ブダペスト四重奏団の演奏が好みですが、決して甘めの演奏ではありませんので、はっきり言って、初めて聴いた時は、その良さは分かりませんでした。

然しながら、時間をかけてじっくりと向き合えば、
朝靄の中から、碧碧とした稜線が薄っすらと現れるかのごとく、
突如として一音一音が妙に生々しく聴こえ出し、
演奏者が隅々に至るまで気を配いながら磨き上げている様が手にとるように分かってくる瞬間があるから不思議です。

そして、ここに至ってようやくと楽曲が本来持っている素晴らしさと、
ブダペスト四重奏団が今日まで支持され続けていることに納得がいくのです。


iPhoneからの投稿
レオン・フライシャーの話題が出たところで、
2009年10月 武蔵野市民文化会館 小ホール
にて行われたコンサート映像を録画したものを
思いだしたように見ることがあります。

清冽な泉にさざ波を立てないような
所作で、一音一音慈愛をこめてすくい上げる。
そういう演奏に聴こえました。

派手な演出は全くありませんが、
しんみりと心に染み入ってくる、
そういう演奏です。
 


グリーグのピアノ協奏曲は、
冒頭部分だけが取り上げられることの多いことに
ウンザリしている方もおられるでしょう。

抒情性や力強さ、ドラマティックな展開と、
実によく出来た曲であるにも関わらず、冒頭部分だけが
独り走りしてしまい、曲そのものの素晴らしさが伝わって
いないような気がします。

同じような境遇の
ベートーヴェンの5番よりも酷い扱いかもしれません。

この曲に関しては、
2011年 ベルリン・フィルのジルベスターコンサートにおける
エフゲニー・キーシンの演奏について、
抒情的というよりは、叙景的
-標題音楽ではないにも関わらずです-
な演奏が素晴らしかったというようなことを書きました。

これは、キーシンの卓越した表現力に加え、
サイモン・ラトル指揮によるベルリン・フィルの面々が
キーシンの意図をくみ取るような丁寧な演奏に徹することで
最大限の効果を上げていたと思えたのですが、
その正反対に位置する演奏もありました。

それは、
レオン・フライシャーのピアノと
セル指揮によるクリーヴランド・オーケストラによる
演奏です。


フライシャーという人は、
かのシュナーベルの弟子でありますが、
ここで聴くことのできる演奏は、
表情の深い演奏というよりは、力強く、全ての音の輪郭を明晰に
描き出した演奏です。

これは、どちらかというと、指揮者であるセルの好みの音・・・

この演奏、実に力強く、方向性も明確で、私自身も
好みなのですが、
先ほどのキーシンがピアノを主とした演奏なのに対し、
フライシャーはセルの好みを反映させた演奏に聴こえて、
なかなか楽しい聴き比べではあります。