ご神名は志那都比古神(しなつひこのかみ)。

級長戸辺命(しなとべのみこと)ともいう。



【うんちく】
イザナギとイザナミの国産みで生まれた風の神。

神社では姫神と一対で祀られていることも多い。


龍田大社では、天御柱命(あめのみはしらのみこと)・国御柱命(くにのみはしらのみこと)とも呼ばれている。


鎌倉時代、蒙古襲来(元寇)の折には、そのご神威を持って猛風を吹かせた、とされている。



【性格】

いかんせん「風」なので、祭神名こそ男神・姫神の区別があるものの、実際に会うと中性というか特定できない。

だって風だから。


そもそも、名前を付けられても困る。

だって風だから。(2回目)

なので、あんまり神名で縛られるのがお好きではないらしい。

(認識はしているから、応えてはくれる)



あと、神さまは基本「一柱」と数えるけれど、こと風の神さまにおいては、境目がなさすぎてわからない。

だって(以下略)。


声をかけてくるときは、なんとなく一人の声に聞こえるけど、たぶんコレ、人としての認知の限界。

(「海」の神さまとかはちゃんと輪郭があるから、風という性質に寄るのかもしれない)



優しくも掴みどころがない、自由奔放な神さま。

一番「自然」に近いと言えるかもしれない。



【ご神徳】
これまた「あんまり縛られたくない」と言われるけれど、それだとヒトがわかんないからガマンしてね!!

(for 風の神)


「気」即ちエネルギーを司る神さま。

だから、運「気」とか天「気」とも関わっています。

ヒトが生まれたとき、初めに触れるのは「空気」だし、生命の息吹とも関わっているから、子宝・安産とかもありそう。


あと、勝負運とかにも強い印象。

ここぞというときに、自分の「気=エネルギー」を最大限に引き出してくれるかも。



また、目に見える物事にこだわりすぎたり、人からの評価や目線を気にしすぎる人にとっては、「囚われず自由に自分として振る舞う」ことを教えてくれます。


案外、人って人のことを気にしていないし、仮に気にしていたとしても、それはその人のフィルタ、もしくは自分の認識でしかなく、「事実」や「現実」とは限らないことに気づかせてくれるでしょう。



【神さまからのメッセージ】

好きに生きたらいいよ。キミは、自由だよ。

肉体があるかないか、ただそれだけで変わらない。


何者にも縛られることなく、物事にも囚われることのない人生を見せよう。

身軽になって、追いかけてきてよ。

魂の息吹は、いつも心の中にあるでしょう。


さあさ、キミはキミに手を取ってもらわないと。

「相通ずる」風を吹かせよう。


紗妃のコメント】
…いや、ホントにわからん…。

とはいえ、付き合いが長くなるにつれて、その捉えどころのない本質こそが、この神さまのものなんだな、と思います。

「どこ吹く風」でいるのが最強、みたいな。

 

「フージー」って、私個人は呼んでるけど、これも一応声をかけるためだけの取り決めであって、神名とかとは違うしな…。なんなら「風(ふう)」だけでもいいかもしれない。



失われることのない風、生命の息吹がどこまでも続くなら、どこにいてもどう振る舞おうと自由なのでしょう。


それはヒトが忘れかけていた、「自分」というあり方をも優しく示唆してくれているように思います。

自由であるならば、舵を取るのも自分の選択だから。


そして、それが自分の、それこそ「魂の気」から出てくるものならば、どこまでも軽やかにまだ知らない「目的地」へと、誘ってくれるのです。


 

 

【会える場所】
龍田大社(奈良県)
風宮(外宮・三重県)
風日祈宮(内宮・三重県)

 

その他、全国の神社の摂社末社に祀られている。



 

 


きっと誰にも理解してもらえない。

承認を求めてエンヤコーラ、としていた私にとって、この話を出すことはとても敷居を高く感じるけれど。


神さまと関わってからというもの、「自分にしかわかりようのない気づき」が多かった。
それも、いつどこで発生するかわからない。

特別な状況でもないときに、むしろ日常の中で、例えばお風呂に入ってる時だったり、トイレに座っているとき(!)ですら、それは起こる。

それは、神さまとご縁を繋いだ方からも聞く話。
「気づく」ことは人それぞれであっても、それでいて「自分の感覚でしかわからない」と口を揃えて言う。


そう、本当に「自分にしかわかりえない」ものを神さまから届けられる。
その話を聞くたびに、神さまの後押しは本当に人それぞれで、その人と神さまだけのモノなんだな、とつくづく感じる。

私は、つなぐだけ。届けるだけ。言葉を伝えるだけ。

私は、たまたま教えてくれる人がいる上に、そも自分が(ありがたいことに)気付きにまみれているから「わかる」だけで、普通の人は共感し難い話だろうな、と思うし、また受け取った人も説明し難いだろうな、とも思う。

でも、その「気づき」はキセキでもなんでもなく、日常の延長線上にある。というか、そこにしかない。
そこかしこに転がっているもんで、ちょいと窓を開いたら見つけた!…くらいのもん。

たとえば「好きだったことを思い出せた」とか、「自分に厳しすぎた」とか「『こうあらねば』という思い込みに囚われていた」とか「過去を許せた」とか。

言葉にすれば、「あ、そう。そうなのね」で流されそうなことが、自分の身に起きたとき、言葉以上に感覚で染み渡るものがあって、それはもう、それこそ人それぞれの感覚で、理屈でもなく、説明できないものなのだ。


そうは言っても「塵も積もれば山となる」とはよく言ったもので、その小さな気づきの積み重ねで、人生の選択肢は変わる。
つまり、現実は変わる。
それは誰かの手によってではなく、自分自身の選択によって、変わるもの。

もちろん、ある程度は「見えざる手」も入るけど、あくまでも選択肢は自分の手の内にある。

そして、言い訳やごまかしも効かなくなる。

「あの人が過去にああ言ったから」
「こういう出来事があったから」
「状況がこうだから」

それが事実であるにせよ、それをどう捉えで何を選択するかは、自分自身である。
そして、それを「タテ」にして正当化しているのもまた、自分自身なのだと気付けるかどうか。


人生の可能性を最大限に発揮する分岐点は、そこにあるように思う。
つまり、「現実」を盾にして自分で可能性を矮小化していれば、いわゆる「本来の自分」にたどり着くこともなければ、「魂の人生」を歩むこともできない。

もっとも、その道を発見するためのプロセスとして、それがある場合がほとんどなので、それを全くのムダとも言えない。

要するに、然るべきタイミングでそこから卒業すべきときが来たときに、しがみついたままでいるのか、あるいはそこから離れて新しい道に進むことを選ぶのか、ただそれだけである。

まあ、そんな偉そうに言っておきながら、私自身もまだまだ途上である。
「しがみついたまま」でいたのは、他の誰でもなく私自身だった。

それも、過去のできごとからの思いこみ、因果関係の勘違い、刷り込みや誤認識にゴマカシに正当化…と、「うまくいかないため」のオンパレード。

「人生がうまくいくためにはどうすればいいか」と問われるより、「うまく『いかない』ためには、どうすればいいか」と聞かれたほうが、うまく答えられる気さえする。

なぜなら私のこれまでの人生が、ほぼ「他者から承認をもらうため」で築かれていたから。
なんなら、それに気づいてもいなかった。
自分で言ってどうかと思うが、「自分にすらうまく隠し通していた」んである。


それを長年かけて、神さまにペリペリと剥がしてもらい、どうにかやっと最近になって「自分を認める=自分を生きるとはどういうことか」に気づくまで漕ぎつけた。

なお、まだそれは「終わって」はいない。
最後のところで、自分の仕掛けた認知の罠にハマって、抜け出そうと足掻いている。


ホント、こういう自分の情けない話を出すのはどうかと思うんだけど、これもまた私の課題だったりする。


無条件で自分を全面に出せるかどうか。
どういう反応があろうと、またなかろうと、まるで「私の現実には脅威がない」と明確にできるかどうか。


神さまの後押しは、気づきのみならず、実践までがワンセットなのだ。
それは誰であっても同じで、私もまた例に漏れず。


「現実」とは、自分の捉え方や解釈であることもまた、神さまに教わったこと。

今日は、この「課題」を終えた先の自分も見せてもらって、「まあなんて親切☆」…なんて思ったのも束の間で、自分の恐れが幻想であることを目の当たりにし、かつ私がその幻想にしがみついていることに直面せざるを得なくなった。

私が、その恐れをタテにして、前に進むことを拒んでいる。
その事実から、逃れられなくなった。


それでも、自分の意志の力のほうが強いと信頼して、自ら選択すべき責任を果たせば、それは必ず「完了」できるもの、と思っている。

心理的な抵抗が大きいほど「気づき」を回避する内側の力もまた大きいけれど、いつまでも続くものではない。
「魂の意志の力」は、その抵抗をも凌駕して、それこそ無意識に「然るべき選択」をするのだな、と最近はつくづく思う。


気づきを吹かせる「風」の神さまの後押しはコチラ☆







海に山、水に土。太陽と月。天と星。

八百万の神さまは多彩で、さまざまな形で人を見守っています。
日本の神さまのいいところは、神社に行ったらいつでも会える身近な存在でもあること!


【風の神さまのお話】

②ゆらりどこ吹く風の神さま



もちろん、風の神さまもちゃんと神社にいます。
中でも代表的な、風の神さまが祀られている三社をご紹介しますね!


●風日祈宮(三重県)


まずは伊勢神宮。
内宮に風日祈宮があります。
これで「かざひのみのみや」と読みます。

古くは風神社と呼ばれていました。
鎌倉時代、「蒙古襲来」で風を起こして、国の危機を救ったことから、「宮」の号がつきました。
(社より宮の方が格が上なのです)


内宮の敷地の端にあり、とても気持ちよく風の吹くお社です。


●風宮(三重県)


こちらも伊勢神宮で、外宮の方にあります。
「宮」の号がついたのも、内宮と同じく、蒙古襲来で風を起こしたご神威から。


内宮と外宮ともに重たくなったエネルギーを軽くしてくれたり、「心の平穏」を取り戻すのを手伝ってくれます。

伊勢にお詣りの際に立ち寄ってみてくださいね。

●龍田大社(奈良県)

 

最後に、奈良は三郷にある龍田大社。
風の神さまが祀られている代表的な神社と言ってもいいかもしれません。

スポーツ選手が「うまく風に乗れるように」と戦勝祈願で来ることもあるようです。

鳥居から本宮までまっすぐな、広々とした境内は、ただ歩いているだけでも心地よさを感じます。

忙しい毎日や喧騒から離れて、穏やかな気持ちを取り戻したい方にもオススメの神社です。




他にも各地の神社の摂社末社に祀られていることがあります。

風の神さまが一番喜ぶのは、風を感じること!
爽やかな風が吹くこの時期に、風の流れを意識しながら過ごすと、身軽に感じられたり、いいモノを運んでくれたりするようですよ。

いつでもどこでも「風」を感じて、神さまと仲良くなってくださいね!



エネルギーを軽くして人生の可能性を広げたい方にオススメです。


「癒やし」とは受動的に受け取るものではなく、能動的に自分が関わっていくものなんだな、ということをつくづく感じています。

自分で目を向けない限り、傷を癒やすことはできないのです。

だから、少し前にお客さまからこんなお便りを受け取ったとき、無意識に癒やしを避けていたことに気づいた私は、身につまされる思いだったのです。


メッセージありがとうございました!

「自分が自分で癒すと決める」というのは
今まで気付きませんでした。

いつでも癒してくれる人達に囲まれているから、我慢したあとに癒してもらうという習慣が無意識に出来てたんだなと思いました。

これに気付けたから、夕べは自分を自分で癒しました。
レイキも使えることを忘れていました。


〜中略〜

癒してもらいたい
承認してもらいたい
ずっと「外」に求めて

肝心の自分が自分を癒してあげない
本当の意味で承認してあげない
自分には上っ面しかやらない
だから、長いこともやもやする
何かすっきりしない
何かわからないけど不満を持ち続ける
って来たんですね。

他人には出来て自分には出来ないなんてね
本当に腑に落ちました。
気付けて良かったです。



「癒やされる自分でいる」ことで安心を得ていると、「癒やしてもらう特権」を手放すのは惜しいものです。
それこそ無意識に、自分で癒やされるのを避けていたりします。


このパターンに、私も目下格闘中です。

その無意識のパターンに気づくには、「自分の感情をスナオに受け止める」こと。


意外と、自分で感じる感情を選んでいるものです。

出てきても「でも、あのときはこうだったから」「あの人は悪くないから」と理屈をつけて、思考で処理していると、本当の意味では自分で受け止めていないんですね。

自分の感情は、自分のものです。
感情自体に悪いものはなく「思ってはいけないこと」なんて、ありません。


エネルギーの観点から言っても、ガマンすればするだけ、抑圧された感情でエネルギーが重くなり、流れも停滞します。

だから、感情を受け止めるとエネルギーの滞りがなくなって、運気にも乗りやすくなるんですね。


不満を決して誰かにぶつけることなく、ガマンしてきたあなたは、とても優しい人なんだと思います。

だからこそ、そろそろ感情にスナオになることを許してあげていいのだと思います。

大丈夫、どんな感情が出てきたって人にぶつけないアナタは強いのです。

受け止めることだって、できるはず。
もし不安や恐れが出てきたとしても、それでもあなたは「できる」のです。


もし、少し自信ないかな…と思ったら、風の神さまの助けを借りてみるのもオススメ。

感情を深刻化させず「今の私はそう思っているんだな」と受け止めたり、今まで否定してきた感情をスナオに受け入れる手助けをしてくれます。


感情をスナオに受け止められるようになると、「自分にできる」という自信から、新たな選択肢も見つけることができるようになります。

穏やかで身軽になった「私」から、広がる道へ!

追い風を受けて、どこまでも羽ばたいていってくださいね☆



滞ったエネルギーを手放して、運気を加速させたい方にオススメです☆

ただいまお申し込み受付中です。





キコキコときしむ自転車を漕ぎながら、向かい風を心地よく感じる季節になりました。

朝になると、ちょっと寒いくらいで、一体いつになったらエアコンを切ればいいのか、模様替えはいつすればいいんだろう…なんてことも考えます。


【風の神さまのお話】

風の神さまは他の神さまと違って、気配こそ近くに感じるものの、ちっともそばにいる気がしません。


まるで「どこ吹く風」と、あっちへフラフラ、こっちでフラフラと好きなように飛んでいくさまは昔、セドナで出会った精霊さんのようです。

彼らは自由で、人がいようがお構いなしに彼らとしてそこにあり、ときどき人と関わるのを楽しんでいるようでした。


それに比べると風の神さまは、それでも一応は風の神さまらしく、さりげなく「必要なもの」を運んでくるようです。

あまりにも自然なので(どの神さまもそうですけれど、風の神さまはとくに)、よくよく注意していても後になって気づくほどなのですが、当神は気にしている風でもありません。

「好きにする」が信条———と言うのも、それこそ自由な風の性質に反していそうですが———という風の神さまは、まさしく捉えどころのない存在なのでした。

もっとも、「風」であって「神さま」と言われるのはあまりお好きじゃない様子で———どうも存在を「規定」されるのが嫌なようなのです———、仕方なく私は以前から「フージー」と呼んでいるのですが、思いのほか喜ばれています。

神さまは嫌なのに、あだ名を付けられるのはいいの?
こちらは違いがサッパリわからないのですが、神さまの理、もとい自然界の理は人とは異なるもの。
喜んでもらえるならそれでいいや、とこっちも気にせず呼ぶことにしました。


そんなフージーは(ニュアンスとしては「ふぅじぃ」なのですが、ここではフージーとします)、過去のエネルギーの手放しに四苦八苦している私をちょくちょく覗きに来ては、「ふぅん」と去っていきます。

「軽やかに、かろやかーに」と、ぐるっと巡って去ることもあれば、穏やかな風のようにゆるゆると着いてくることもあります。

「手放す」と言っても、そもそも風に手などありませんから、「手を放す」ことそのものが新鮮のようですし、それが難しいことも理解はしつつも、不思議そうです。

人って、なんだか穏やかに大変だねえ。

あのね、フージー。
ヒトは肉体を持っているから、そこに囚われたり縛られたりすることもあるんだよ。

でも、そうじゃない人もいるから不思議だねえ。

そう言いつつも、ちっとも気にしていないようです。
それがまた、ごく自然でちっとも嫌な感じがしないので、私が落ち着いて自分自身のありのままを取り戻すのに一役買ってくれるのでした。

そのまんまでいいのにねえ。
ヒトは、ちょっと考えすぎだねえ。

私も、そう思います。
思い出が思い出以上の鎖となって鎖となれば、ちっともセピア色に変わってくれないどころか、取り戻せそうにないものを取り返そうとしたり、あるいは誰かのせいにしたり、あるいは手放すことすら恐れることに辟易してもいました。

みんな、幸せがどこかにあると信じているんだねえ。
本当は自分の中にあるのにねえ。

「全ては自分の中にある」とは、以前に他の神さまから教わったことですが、漠然と理解しつつも、感覚として掴むのには程遠いようです。

思い出は悪さしてないのにねえ。
自分の目線だけが、そうさせるんだねえ。

なんだかんだ、ヒトを観察しているフージーは、のんびり言いながら、お茶を飲み終えたようにまたどこかへ飛んでいくのでした。

その姿(と言っても見えませんが)を見送りながら、ほぅっとため息をつきます。

自分と向き合う中で、全く解決しない対処法にこれまでしがみついては、未だに囚われていることにウンザリしつつも、確かにこれまでとは違って状況に追い風が吹いているのを感じています。

曖昧だった自他、あるいは過去と現在の境界線も明確になりつつあります。

文字通りコドモのように、誰かにしがみついて離れなかった私にとって、その感覚はまるで未知の世界であるようで、そっと覗いてはまた引っ込むことを繰り返しながら、少しずつ本来の自分へと是正が成されているのでした。

このまま、追い風を受けてその流れが加速するといいのですが、それも徐々に追い上げて、最後の仕上げへと入っているのでした。


フージーの後押しで流れを加速させたい方にオススメです。