風が吹くと今の季節は、公園の落ち葉が舞っています。
吹き溜まりには、茶色くなった落ち葉の小山があちこちに……!
お掃除大変だろうなって思います。
公園には、落葉樹と常緑樹があります。
落葉樹のほうが、何だかそばにいて安心感があります。
何故なんでしょうか?
奈良県は少し奥に行くと吉野杉ばかりの山もあります。
杉ばかりの山はちょっと寂しい感じ……かな。
整列した軍隊の兵隊さんばかりって感じ!
でも公園の木が全部落葉樹だったら、冬は全部の葉が落ちてしまって、少し哀しいかも知れないです。
落ち葉達の行方は、今は殆どが焼却になっています。
以前は全部が土に戻って、自然に堆肥になっていたのでしょうね。
大自然の中で循環する。
雨水も、生き物が食べたモノの終焉も、はたまた生き物達自身も!
土に帰って、また循環して行く自然の仕組みはすごいです。
今は人間がその仕組の途中に介入していて、土に還る循環が途中で遮断されることが多いです。
落ち葉を見ながら、ふと考えてしまいました。
(人間が介入しないと都市生活はできませんから……!)
私が高校生くらいの頃だったでしょうか?
「今からたった50年前の女性は、衣類が必要になったら綿の種を蒔いた」
そんな内容の書籍に出会ったのです。
私の中に衝撃が走りました!!
その書籍の発刊がほぼ50年前なので、今言うなら
「今から100年前の女性は、衣類が必要になったら綿の種を蒔いた」
ってことになるんですね。
綿の種を蒔いて、その果実である綿の実を収穫して、紡いで糸を作る。
その糸を織って布を作る。
そして、やっと自分が着るための衣類を縫えたわけです。
当時、日本は高度成長期でしたから大量に作って、大量に捨てる時代に突入していたかと思います。
世の中にモノが既に溢れていました。
(今の方が、むしろ少量生産になっております!)
新品のポロシャツが、まだ袋に入ったままブルドーザーで大量廃棄される映像が、まだ脳裏に焼き付いていますから。
そんな映像を見ている時期に、その本を読ませていただいた感じなんです。
現代は、何かが間違っている。
そんな風に思いました。
また、綿の種を蒔くところから始める生活は出来ませんが、大量生産して捨てる生活は間違っていると痛感したものです。
こんな時代が、果たして長く続くのでしょうか?
私は戦時中を生きた経験はありません。
物の無い時代を生きた母の話を聞いて育ったせいか、モノを捨てられない自分がいて困っているのも事実です。
いつか必要になるかも……って思うモノも捨てられないのです。
その「いつか」が、決して来ない事は分かっているのですが……。
北陸の山の中の祖母の家では、小さな手のひらサイズの生地さえ、きれいに糊付けされていました。
それをつなぎ合わせて、祖母は布団や半纏を手縫いで作っていました。
真綿が入っていて、軽くて温かくて背中に添ってくれて私は大好きでした。
小さな色々な柄の生地。
パッチワークだなんて言えない、その柄合わせは、さながらお煮しめのようでした。
そして、色々な半端の糸を巻いて巻いて、鞠も作られていました。
その鞠で遊んだ経験もあります。
糸を巻いて丸くなった鞠が弾むことが不思議でした。
さすがに、自分が住む大阪の下町では、ゴムボールしか無くて地域差があったのでしょうね。
おばあちゃんの作る半纏を、また着たいです。
もし、彼女が存命だったら125歳くらいですから、きっと綿の種を撒いた時代から生きていたかと思います。
その時代の人なので、手の平サイズの生地さえ大事に残していたのでしょうね。
衣類一つとっても、そんな感じなので、食事になるともっと大きな変化があるのだと思います。
恵まれた今の時代を「当たり前」とせずに、いつか戻ってしまう時が来ても生き抜ける私達でありたいと思うのです。
大自然の中で生きることの意味を少し考えてしまった今日でした。
いつも、お読み下さってありがとうございます。