ラジオが現れた。テレビが現れた。著者は映像の時代への顧慮から原著を書き記している。筆者が、此処で述べようとしている事はどのように書き、考えるかということである。これは、今日に至るまで普遍的に存在し続けていることである。映像の時代が現れ、文章は抽象的な観念と未来に関する出来事を中心とするようになった。だからより一層、文章の書き方について注意を払わねばならない。
論文を書く上で注意を払わなければならない事。
まず主語がハッキリし、肯定か否定かがハッキリした文章を書くということである。それは、本人が責任を負うということであり、差し障りのある文章を書く ということである。文章の上では社交がないので、主張すべきことはしっかり主張することができるはずである。昔から思想の発展も学問の進歩も曖昧な社交が 行なわれずに、相手を傷つけることなく、本当に相手が承服する立派な論文を書くことが基礎になっている。
また、日本語を外国語のように外部に客体化して、これを明瞭に意識化しなければならない。辞書と文法を便りに全く理詰めで外国語を読むように書かねばな らない。接続詞によって固く結びあわされねばならない。「が」という接続助詞はこれを一つもってくればどんな文章でも書ける。そのため、二つの句、あるい は事実の定義が曖昧であるということを意味する。
更に、「あるがままに」書くこと、つまり「見た通り」「思った通り」に書くことは辞めろと作者は述べている。何故辞めなければならないか、いくつもの事 柄が雑居 している「見た通り」「思った通り」の空間的併存状態では、一挙且つ直接的であることが大事であったが、文章を書く上では不可能で不必要である。文字の強 みは実物そのものと似ておらず抽象的である、絵に書けないものも表現することが出来ることだ。文を書く場合は写真や絵画と違い、作者は、一字一句順々に書 き、また、享受者も一字一句追って読んでいく他ない。制作者も享受者も気の長い時間仮定をゆっくり歩いていかなければならない。
自分の意見にしっかり軸をすえ、引用するときに他者の意見に流されるなという意味である。他者の意見は捨てなければならない。経験と抽象の世界には連続性がある。抽象的な語ばかりを並べ立てたり、経験しか語られていなかったりと言うことを防がねばならない。
これらの事は映像の時代への顧慮から著者は強調せねばならなかったのである。
一、読みやすい文の三つの条件とは
読みやすい文の三つの条件とは
一、短いこと
二、一義的である事
三、平易である事
である。
短い文で書くメリットは、その文の主旨を捉えやすい事にある。長い文章を書くと余計な情報に最も主張したい部分が埋もれてしまう。更に長ければ長いほど、文法エラーも出やすくなる。
一義的であることも重要である。一つの文でも異なった多くの意味で解釈出来るような文は、相手に誤解を与える。
平易である事も条件の中に含まれる。平易である事によって読み手の負担を軽減出来る。
以上が読みやすい文の三つの条件である。
二、文章構造を意識する練習に訳文を真似るのが良いのは何故か。
日本語は主語が落ちても文章として成り立つ言語である。更に、日本語は様々な修飾語をはさみ続ける事が出来るという特色を持っている。それに対し、英文は主語があり述語があって成り立つ言葉である。更に、文の形 が完全に定型化している。そのため、英語は日本語の様に多くの修飾語を挟む事は出来ない。我々が英語から日本語に翻訳するとき、日本語の訳文は英語の文法規則に従っている。
訳文は、英文はすっきりした部分を日本語に反映した文なのである。
読みやすい文の三つの条件とは
一、短いこと
二、一義的である事
三、平易である事
である。
短い文で書くメリットは、その文の主旨を捉えやすい事にある。長い文章を書くと余計な情報に最も主張したい部分が埋もれてしまう。更に長ければ長いほど、文法エラーも出やすくなる。
一義的であることも重要である。一つの文でも異なった多くの意味で解釈出来るような文は、相手に誤解を与える。
平易である事も条件の中に含まれる。平易である事によって読み手の負担を軽減出来る。
以上が読みやすい文の三つの条件である。
二、文章構造を意識する練習に訳文を真似るのが良いのは何故か。
日本語は主語が落ちても文章として成り立つ言語である。更に、日本語は様々な修飾語をはさみ続ける事が出来るという特色を持っている。それに対し、英文は主語があり述語があって成り立つ言葉である。更に、文の形 が完全に定型化している。そのため、英語は日本語の様に多くの修飾語を挟む事は出来ない。我々が英語から日本語に翻訳するとき、日本語の訳文は英語の文法規則に従っている。
訳文は、英文はすっきりした部分を日本語に反映した文なのである。
パラグラフライティングとはパラグラフを設計・執筆の基本単位とする文章である。一パラグラフに一トピックという原則を守る事は、アウトラインをブロック状に分けそれを記す事である。理路整然とした印象を与え、実際に読みやすい文章は「流れ」を重視して文章よりも,塊を積み上げた文章である。文章の質はその書類の信頼性を評価する基準となるために,塊を積み上げたパラグラフライティングの使われたもののほうがよい。
メディア・リテラシーの実践的学習の例
学び手の主体性の育成を掲げるメディア・リテラシー教育では,学び手自身による実践中心の学習を行う.実践内容の多くは情報の“読解”と“発信”を念頭に置いたものである.情報の読解についてはメディアテクスト(各種のメディアが送り出す表現)の批判的読解が代表的である.
一般的な手順は,(1)分析シートなどを利用して,学び手があらかじめ設定された視点に基づき現実のメディアテクストを分析する,(2)分析結果からメディアテクストが発するメッセージの形成要因(たとえば制作者の意図,視聴者の価値観,制作者と視聴者との間にある社会的コンテクストなど)を読み解き,その結果について議論する,といったものである.これらを通して座学のみでは困難な“批判的視点の体得”を目指す.
一方,情報の発信についてはメディアテクストの疑似的制作が多く行われる.たとえば学校のPRを目的とするテレビCMの制作などを想定し,対象とする視聴者の分析から絵コンテの作成,さらには動画の撮影や編集作業など,メディアテクストの制作過程を学び手に体験させる.このときに重視されるのは,メディアテクストの人為的性格,すなわちすべてのメディアテクストは“現実を映す鏡”ではなく制作者の視点による“構成物”であること,に対する理解である.
したがって,単に制作過程を体験するだけでなく,内省や議論によって制作過程を振り返る機会が設けられる.これらの実践の基調をなすのは記号論以降のテクスト解釈論である.
すなわち,読解,発信の双方において,読み手による解釈に開かれた(またそれゆえに“現実を映す鏡”には決してなりえない)記号システムとしてのメディアテクストの性質が強調される.したがって,指導にあたる教員は記号論に対する基本的理解を有することが望ましい.
メディア・リテラシー教育の背後にある保護主義的観点
メディア・リテラシーの教育活動の源流は英国の保守派の文学研究者F.R.リービスの思想を汲んだ教育活動にさかのぼる.
リービス派の教育活動が始まったのは1930年代初頭である.これは米国から輸出されたポピュラー・カルチャー(たとえばハリウッド製の映画など)が英国に浸透した時期と重なる.リービス派の活動は米国発のポピュラー・カルチャーに対する英国の伝統文化の保護が目的であった.彼らは,彼らが信じるところの“伝統文化”に対して,米国から流入するポピュラー・カルチャーを程度の低い堕落した文化とみなした.そして子どもたちをポピュラー・カルチャーの影響から保護するために,学校でマスメディアを取り上げて批判を行う教育活動を展開した.その後の歴史の中でリービス派の露骨な“保護主義的観点”は相対化されるが,その発想は現在のメディア・リテラシー教育の中にも見て取れる.
たとえば,米国と国境を接するカナダ・オンタリオ州編纂のメディア・リテラシー指導書では,各種メディアの商業的,政治的背景の解説と,批判的読解を中心とする授業案の紹介に多くのページが割かれている(この州は1987年に世界で初めてメディア・リテラシーを公教育に導入した).
このカリキュラムの1つの大きな目的は,子どもたちの意識をマスメディアの発するメッセージの影響力から保護することであると見ることもできる.
メディア・リテラシー教育の普及に向けて
メディア・リテラシー教育の普及に向けた課題は多岐にわたる.たとえば,インターネットや携帯電話など,新しいメディアに対応した教育のあり方は現在事例を積み重ねている段階にある.また,英国やカナダなどいわゆる“メディア・リテラシー先進国”と比較した場合,わが国の公教育による取り組みは遅れていると言わざるを得ない.加えて,マスメディアを中心とするプロフェッショナルなメディア制作者による教育への参画もごく少数例にとどまっている.
これらの状況を改善する上で1つの鍵となるのは,伝統的メディア・リテラシーの基調をなす“保護主義的観点”の克服である.この観点はマスメディアと市民との健全な緊張関係を築く上では現在でも価値を持つ.
しかし,この観点への過度の固執は,多様な主体(特にマスメディア)による教育への参画を排除する傾向を生み,教育の普及の足かせとなる.加えて,メディア・リテラシー教育を,学び手自身に対する批判的省察を欠いた浅薄なメディア批判へと矮小化する.
現在,この点に自覚的な担い手たちは新たなメディア・リテラシー像を模索している.今後も多様な立場に開かれた議論と実践の積み重ねが期待される.
メディア・リテラシーの実践的学習の例
学び手の主体性の育成を掲げるメディア・リテラシー教育では,学び手自身による実践中心の学習を行う.実践内容の多くは情報の“読解”と“発信”を念頭に置いたものである.情報の読解についてはメディアテクスト(各種のメディアが送り出す表現)の批判的読解が代表的である.
一般的な手順は,(1)分析シートなどを利用して,学び手があらかじめ設定された視点に基づき現実のメディアテクストを分析する,(2)分析結果からメディアテクストが発するメッセージの形成要因(たとえば制作者の意図,視聴者の価値観,制作者と視聴者との間にある社会的コンテクストなど)を読み解き,その結果について議論する,といったものである.これらを通して座学のみでは困難な“批判的視点の体得”を目指す.
一方,情報の発信についてはメディアテクストの疑似的制作が多く行われる.たとえば学校のPRを目的とするテレビCMの制作などを想定し,対象とする視聴者の分析から絵コンテの作成,さらには動画の撮影や編集作業など,メディアテクストの制作過程を学び手に体験させる.このときに重視されるのは,メディアテクストの人為的性格,すなわちすべてのメディアテクストは“現実を映す鏡”ではなく制作者の視点による“構成物”であること,に対する理解である.
したがって,単に制作過程を体験するだけでなく,内省や議論によって制作過程を振り返る機会が設けられる.これらの実践の基調をなすのは記号論以降のテクスト解釈論である.
すなわち,読解,発信の双方において,読み手による解釈に開かれた(またそれゆえに“現実を映す鏡”には決してなりえない)記号システムとしてのメディアテクストの性質が強調される.したがって,指導にあたる教員は記号論に対する基本的理解を有することが望ましい.
メディア・リテラシー教育の背後にある保護主義的観点
メディア・リテラシーの教育活動の源流は英国の保守派の文学研究者F.R.リービスの思想を汲んだ教育活動にさかのぼる.
リービス派の教育活動が始まったのは1930年代初頭である.これは米国から輸出されたポピュラー・カルチャー(たとえばハリウッド製の映画など)が英国に浸透した時期と重なる.リービス派の活動は米国発のポピュラー・カルチャーに対する英国の伝統文化の保護が目的であった.彼らは,彼らが信じるところの“伝統文化”に対して,米国から流入するポピュラー・カルチャーを程度の低い堕落した文化とみなした.そして子どもたちをポピュラー・カルチャーの影響から保護するために,学校でマスメディアを取り上げて批判を行う教育活動を展開した.その後の歴史の中でリービス派の露骨な“保護主義的観点”は相対化されるが,その発想は現在のメディア・リテラシー教育の中にも見て取れる.
たとえば,米国と国境を接するカナダ・オンタリオ州編纂のメディア・リテラシー指導書では,各種メディアの商業的,政治的背景の解説と,批判的読解を中心とする授業案の紹介に多くのページが割かれている(この州は1987年に世界で初めてメディア・リテラシーを公教育に導入した).
このカリキュラムの1つの大きな目的は,子どもたちの意識をマスメディアの発するメッセージの影響力から保護することであると見ることもできる.
メディア・リテラシー教育の普及に向けて
メディア・リテラシー教育の普及に向けた課題は多岐にわたる.たとえば,インターネットや携帯電話など,新しいメディアに対応した教育のあり方は現在事例を積み重ねている段階にある.また,英国やカナダなどいわゆる“メディア・リテラシー先進国”と比較した場合,わが国の公教育による取り組みは遅れていると言わざるを得ない.加えて,マスメディアを中心とするプロフェッショナルなメディア制作者による教育への参画もごく少数例にとどまっている.
これらの状況を改善する上で1つの鍵となるのは,伝統的メディア・リテラシーの基調をなす“保護主義的観点”の克服である.この観点はマスメディアと市民との健全な緊張関係を築く上では現在でも価値を持つ.
しかし,この観点への過度の固執は,多様な主体(特にマスメディア)による教育への参画を排除する傾向を生み,教育の普及の足かせとなる.加えて,メディア・リテラシー教育を,学び手自身に対する批判的省察を欠いた浅薄なメディア批判へと矮小化する.
現在,この点に自覚的な担い手たちは新たなメディア・リテラシー像を模索している.今後も多様な立場に開かれた議論と実践の積み重ねが期待される.