シルクロードのブログ

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(1)
 何かが存在するという知識を経験的知識という。幸福は悲惨より、知識は無知より、好意は悪意より望ましいと判断は、あるものが存在する、しないという事実によってそのため、論理的原理は経験的に証明できない。

(2)
 経験論者はすべての知識は経験によって生じると述べている。ラッセルは知識はすべて経験によって生じ、経験を原因とすることは妥当な主張であると考えている。又、他のいくつかの経験の助けを得ない限り、直接経験していないものが存在すると知ることはできないという考え方も妥当である。
 逆に、経験論の限界はすべてが経験によって生じるという考えにおいては、幸福は悲惨より、知識は無知より、好意は悪意より望ましいという判断は説明できないということである。
 一方、合理主義者は人は皆経験的知識の他に生まれた時から持っている生得観念が存在するというバカバカしい主張したとラッセルは述べている。「Aが存在するならばBも存在する」という演繹を用いて何が存在しなければならないかを演繹できると信じていたが、「何かが存在するならば」という経験に基づいた知識に依存せざるを得ない。これが合理主義者の限界である。

(3)
個別事例はいずれも原理の典型例として理解される。つまり、個別事例は必然性を持つ。現実的であろうと可能的であろうとすべてのものが従うべき必然的な事柄なのだ。 2+2=5となる世界が存在したのならば、知識体系の全体が覆され、五里霧中の状態に投げ込まれてしまう。一方、経験的一般化はただの事実にすぎないため、どんなに立証されていても必然的でない。『ガリバー旅行記』の不死のストルドブラグ人のことを想像するように誘いかけるとき読者は黙ってそれに従うことができる。それ故、一般的経験は個別事例より不確かである。
(4)
 一般命題の意味を明確にするためには普通はいくつかの個別事例が必要である。
 単純な論理的判断を下すときは個別事例から推論することなく、一般命題を知ることができる。「ブラウンとジョーンズが二人」で「ロビンソンとスミス」が二人で「2+2=4」なので「ブラウン、ジョーンズ、ロビンソンとスミスが四人であるという演繹において彼らは4人であるということを語っているが、一般命題は前者について決して語らず、後者が「ブラウン、ジョーンズ、ロビンソンとスミス」という前提は語らない。一方、経験的一般化は必然性のないただの事実にすぎない。
 「すべての人は死ぬ」という経験的一般化に使用する事柄を一般命題として経由して演繹するのは馬鹿げている。単純に帰納的に論じた方がよい。

(5)
「はげた人は人である」とか「平面図形は平面だ」、あるいは「下手な詩人は詩人だ」などは純粋に分析的に判断を下している。つまり、分析的と言われるものは主語を分析するだけで述語が得られる。「はげた人ははげていない」と言うと、はげていることを肯定すると同時に否定しており自己矛盾を生じさせてしまう。「7+5=12」という数学の命題は総合的である。12の中に7にも5にも足し合わせるという概念にも12は含まれていない。
(6)
ラッセルがカントを批判する第一の点は、色や堅さなどは対象から与えられているという点である。ラッセルはそのことに関して、時間と空間の内で素材を並べ、又センスデータと素材との間のすべての関係をもたらすとして批判している。
批判する第二の点は、カントの方法ではアプリオリな知識の問題を取り扱おうとする試みにとって致命的であることである。事実はすべて算術と論理に従うということの確実性であった。しかし、論理学と数学が私たちに由来するとしても、この確実性は説明されない。何故なら私たちの本性も現実世界の事実であり、それが一定であり続けるという保証は何もないからである。
一、ラッセルは実在と現象をどのように区別しているか
「実在」とは「どのようであるのか」、「現象」とは「どのように見えるのか」であるとラッセルは述べている。つまり、「現象」はある一つの条件下、物体、観察者、光などの加減によって知覚できるものである。例えば、テーブルが茶色いというのも、真っ暗闇の中で確かに存在する筈のテーブルを見ようとしてもそれを「色」を捉えることができない。つまり、我々が目で捉えられるのは「現象で」ある。
 それに対し、「実在」は目に見えないものである。私たちはみな、ものの実在について判断する習慣を身につけている。それを余りにも無反省に判断するため、自分は本当の形を実際に見ていると考えてしまう。見えてる形から「実在の」形を作り上げるように経験が教えて来たのであり、生活の中で関心のもたれるのも「実在の」形のほうである。センスデータとは、色、匂い、硬さ、手触りなどのことである。それは、そっくりそのままがテーブルの性質であるとは言うことができない。つまり、センスデータをセンスデータたらしめめているのは五感であり、我々人間が存在しなければセンスデータは存在し得ないのである。だが、例え人が一秒後に世界から消えてしまってもテーブルの「実在」は変わらずに存在する。バークリ正僧は「実在」のテーブルを神の心の中の観念であるとし、ライプニッツは多少発達していない心の集りだとしている。彼らは実在のテーブルは存在するかという問に対しては頷くが、それがどんな対象であるかという段になると常人からかけ離れたトンデモ珍回答をする。つまり、私たちが直接見ているのが「現象」であり、それを私たちは背後にある何らかの「実在」の記号だと信じているのである。しかし、実在が見えないのであればのであれば、そもそも実在の有無を知る手立てがあるのか。これに関する答えが奇妙なものでも否正しくないということを示すことはできない。「実在」を我々が捉えることができない現在、テーブルは「実在」は存在しないのではないかという疑いが生じて来る。
二、「自分とその経験以外のものが存在していることは、ある意味では、決して証明できない。」にもかかわらずラッセルが最終的にそれを受入れる理由
 私自身とその考え、感情、感覚から世界が成り立っており、それ以外はすべて幻にすぎないと仮に存在したとしてもそこから論理的な不都合は帰結しない。普通センスデータからは対応する物的対象が推論されるが、夢のセンスデータはこの対応を待たずに現れるということが分かったということだ。確かに夢のセンスデータにも物的な原因が見つかるが、夢の中で起こった事項に関して現実で起こった事項と同じように対応する物的対象は存在しない。人生全体が夢であり、その中で会う対象はすべて自分が作り出したものだと想定することは、論理的に行って不可能ではない。しかし、それを正しいと規定することもできないのである。物的対象が本当にあることを想定することで、どう単純になるのか理解するのは簡単だ。猫が部屋の隅にいたとして暫くした後に別の部屋の隅で見かけたら普通は移動したことと考えるだろう。しかし、自分の経験と自分しか存在していないという考え、つまり猫がセンスデータの塊と考えると突然別の墨に猫が出現したことになる。ラッセルが見ていようがいまいが猫が存在するとすれば猫がその間にどのように腹を空かせるかについて、自分の経験から容易く理解できる。しかし、見ていない間存在しないとすると、「存在しないにもかかわらず、その間に、存在している時と同じ早さで食欲がわいている」
というおかしな状況になる。この場合、猫がセンスデータであったとすれば、猫の見せる空腹の表情は色編の移動でしかない。人間の場合いも、自分の考えや感じを相手の仕草に結びつけずにいることは難しい。勿論夢の中でも同様のことが起こり、そこに実際に人がいると感じることもあるが、これは起きている間の事柄に影響されているだけである。