課題 | シルクロードのブログ

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一、ラッセルは実在と現象をどのように区別しているか
「実在」とは「どのようであるのか」、「現象」とは「どのように見えるのか」であるとラッセルは述べている。つまり、「現象」はある一つの条件下、物体、観察者、光などの加減によって知覚できるものである。例えば、テーブルが茶色いというのも、真っ暗闇の中で確かに存在する筈のテーブルを見ようとしてもそれを「色」を捉えることができない。つまり、我々が目で捉えられるのは「現象で」ある。
 それに対し、「実在」は目に見えないものである。私たちはみな、ものの実在について判断する習慣を身につけている。それを余りにも無反省に判断するため、自分は本当の形を実際に見ていると考えてしまう。見えてる形から「実在の」形を作り上げるように経験が教えて来たのであり、生活の中で関心のもたれるのも「実在の」形のほうである。センスデータとは、色、匂い、硬さ、手触りなどのことである。それは、そっくりそのままがテーブルの性質であるとは言うことができない。つまり、センスデータをセンスデータたらしめめているのは五感であり、我々人間が存在しなければセンスデータは存在し得ないのである。だが、例え人が一秒後に世界から消えてしまってもテーブルの「実在」は変わらずに存在する。バークリ正僧は「実在」のテーブルを神の心の中の観念であるとし、ライプニッツは多少発達していない心の集りだとしている。彼らは実在のテーブルは存在するかという問に対しては頷くが、それがどんな対象であるかという段になると常人からかけ離れたトンデモ珍回答をする。つまり、私たちが直接見ているのが「現象」であり、それを私たちは背後にある何らかの「実在」の記号だと信じているのである。しかし、実在が見えないのであればのであれば、そもそも実在の有無を知る手立てがあるのか。これに関する答えが奇妙なものでも否正しくないということを示すことはできない。「実在」を我々が捉えることができない現在、テーブルは「実在」は存在しないのではないかという疑いが生じて来る。
二、「自分とその経験以外のものが存在していることは、ある意味では、決して証明できない。」にもかかわらずラッセルが最終的にそれを受入れる理由
 私自身とその考え、感情、感覚から世界が成り立っており、それ以外はすべて幻にすぎないと仮に存在したとしてもそこから論理的な不都合は帰結しない。普通センスデータからは対応する物的対象が推論されるが、夢のセンスデータはこの対応を待たずに現れるということが分かったということだ。確かに夢のセンスデータにも物的な原因が見つかるが、夢の中で起こった事項に関して現実で起こった事項と同じように対応する物的対象は存在しない。人生全体が夢であり、その中で会う対象はすべて自分が作り出したものだと想定することは、論理的に行って不可能ではない。しかし、それを正しいと規定することもできないのである。物的対象が本当にあることを想定することで、どう単純になるのか理解するのは簡単だ。猫が部屋の隅にいたとして暫くした後に別の部屋の隅で見かけたら普通は移動したことと考えるだろう。しかし、自分の経験と自分しか存在していないという考え、つまり猫がセンスデータの塊と考えると突然別の墨に猫が出現したことになる。ラッセルが見ていようがいまいが猫が存在するとすれば猫がその間にどのように腹を空かせるかについて、自分の経験から容易く理解できる。しかし、見ていない間存在しないとすると、「存在しないにもかかわらず、その間に、存在している時と同じ早さで食欲がわいている」
というおかしな状況になる。この場合、猫がセンスデータであったとすれば、猫の見せる空腹の表情は色編の移動でしかない。人間の場合いも、自分の考えや感じを相手の仕草に結びつけずにいることは難しい。勿論夢の中でも同様のことが起こり、そこに実際に人がいると感じることもあるが、これは起きている間の事柄に影響されているだけである。