9回文書作成演習 | シルクロードのブログ

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パラグラフライティングとはパラグラフを設計・執筆の基本単位とする文章である。一パラグラフに一トピックという原則を守る事は、アウトラインをブロック状に分けそれを記す事である。理路整然とした印象を与え、実際に読みやすい文章は「流れ」を重視して文章よりも,塊を積み上げた文章である。文章の質はその書類の信頼性を評価する基準となるために,塊を積み上げたパラグラフライティングの使われたもののほうがよい。

メディア・リテラシーの実践的学習の例
 学び手の主体性の育成を掲げるメディア・リテラシー教育では,学び手自身による実践中心の学習を行う.実践内容の多くは情報の“読解”と“発信”を念頭に置いたものである.情報の読解についてはメディアテクスト(各種のメディアが送り出す表現)の批判的読解が代表的である.
 一般的な手順は,(1)分析シートなどを利用して,学び手があらかじめ設定された視点に基づき現実のメディアテクストを分析する,(2)分析結果からメディアテクストが発するメッセージの形成要因(たとえば制作者の意図,視聴者の価値観,制作者と視聴者との間にある社会的コンテクストなど)を読み解き,その結果について議論する,といったものである.これらを通して座学のみでは困難な“批判的視点の体得”を目指す.
 一方,情報の発信についてはメディアテクストの疑似的制作が多く行われる.たとえば学校のPRを目的とするテレビCMの制作などを想定し,対象とする視聴者の分析から絵コンテの作成,さらには動画の撮影や編集作業など,メディアテクストの制作過程を学び手に体験させる.このときに重視されるのは,メディアテクストの人為的性格,すなわちすべてのメディアテクストは“現実を映す鏡”ではなく制作者の視点による“構成物”であること,に対する理解である.
 したがって,単に制作過程を体験するだけでなく,内省や議論によって制作過程を振り返る機会が設けられる.これらの実践の基調をなすのは記号論以降のテクスト解釈論である.
 すなわち,読解,発信の双方において,読み手による解釈に開かれた(またそれゆえに“現実を映す鏡”には決してなりえない)記号システムとしてのメディアテクストの性質が強調される.したがって,指導にあたる教員は記号論に対する基本的理解を有することが望ましい.
メディア・リテラシー教育の背後にある保護主義的観点
 メディア・リテラシーの教育活動の源流は英国の保守派の文学研究者F.R.リービスの思想を汲んだ教育活動にさかのぼる.
 リービス派の教育活動が始まったのは1930年代初頭である.これは米国から輸出されたポピュラー・カルチャー(たとえばハリウッド製の映画など)が英国に浸透した時期と重なる.リービス派の活動は米国発のポピュラー・カルチャーに対する英国の伝統文化の保護が目的であった.彼らは,彼らが信じるところの“伝統文化”に対して,米国から流入するポピュラー・カルチャーを程度の低い堕落した文化とみなした.そして子どもたちをポピュラー・カルチャーの影響から保護するために,学校でマスメディアを取り上げて批判を行う教育活動を展開した.その後の歴史の中でリービス派の露骨な“保護主義的観点”は相対化されるが,その発想は現在のメディア・リテラシー教育の中にも見て取れる.
 たとえば,米国と国境を接するカナダ・オンタリオ州編纂のメディア・リテラシー指導書では,各種メディアの商業的,政治的背景の解説と,批判的読解を中心とする授業案の紹介に多くのページが割かれている(この州は1987年に世界で初めてメディア・リテラシーを公教育に導入した).
 このカリキュラムの1つの大きな目的は,子どもたちの意識をマスメディアの発するメッセージの影響力から保護することであると見ることもできる.

メディア・リテラシー教育の普及に向けて
 メディア・リテラシー教育の普及に向けた課題は多岐にわたる.たとえば,インターネットや携帯電話など,新しいメディアに対応した教育のあり方は現在事例を積み重ねている段階にある.また,英国やカナダなどいわゆる“メディア・リテラシー先進国”と比較した場合,わが国の公教育による取り組みは遅れていると言わざるを得ない.加えて,マスメディアを中心とするプロフェッショナルなメディア制作者による教育への参画もごく少数例にとどまっている.
 これらの状況を改善する上で1つの鍵となるのは,伝統的メディア・リテラシーの基調をなす“保護主義的観点”の克服である.この観点はマスメディアと市民との健全な緊張関係を築く上では現在でも価値を持つ.
 しかし,この観点への過度の固執は,多様な主体(特にマスメディア)による教育への参画を排除する傾向を生み,教育の普及の足かせとなる.加えて,メディア・リテラシー教育を,学び手自身に対する批判的省察を欠いた浅薄なメディア批判へと矮小化する.
 現在,この点に自覚的な担い手たちは新たなメディア・リテラシー像を模索している.今後も多様な立場に開かれた議論と実践の積み重ねが期待される.