文章と講演の距離は文章と会話より近い。それは、会話では孤立状態に
なることはまずないが、演説においてはほぼ孤立状態である。
しかし、講演をするという場において、日本語は英語に完全に負ける。
伝達量が英語より日本語のほうが少ないのである。イギリスでは、抽象的
観念や哲学上の議論を自由に用いている。それを、イギリスの聴取者は耳
だけを聞いている。日本語でかたい内容の講演をすれば必然的にテンポが
落ちる。その原因は三つの日本語の特質による。
一つは話し言葉の使用に成り立っているはずの講演で頻繁に書き言葉の助
力を求めて、聴衆の目に訴えなければならない。これは書き言葉に寄った
特徴である。
もうひとつは、講演は書き言葉の助力を求めながら会話のルールを尊重
しなければならないということである。明晰が要求されるところに会話に
独特の照れが現れ、肝心なところで曖昧にする。
また、日本語は主語が頻繁に省略され、動詞が最後に来るため話が忽ち
分からなくなってしまうという欠点も起因している。そのため短い文章を
積み上げたほうがよい。
これらがあるために、日本語の密度は低くなるのである。
ところで、ラジオは話し言葉を孤立無援の状態に押しやり簡単に普遍化
してしまったものである。ラジオでは、「話すように書く」のではなく「
書くように話す」ことが求められる。
テレビは映像の世界に属する。文章を読むのに必要なエネルギーの大部分
は、抽象的な抽象的な部分に消費され、書くエネルギーは抽象的なイメー
ジを言葉に託すため、イメージを相手の内部に生み出すために消費されて
きた。しかしテレビは人間を映像の世界に引き入れてしまうのである。テ
レビの世界においては完全に言葉は付属品に過ぎない。
しかし、現代において映像にならぬものは抽象観念と未来であるわたしたちは未来というものを信ずる限り書かねばならぬであろう。
前章で述べてきた多くのルールは映像時代の顧慮から強調せねばならなかったのである。