裸一貫で攻めて行くとは、自分の意見にしっかり軸をすえ、引用するときに他者の意見に流されるなという意味である。他者の意見は捨てなければならない。
書く事と話すことは根本的に機能が違う。話し言葉は周りの状況や相手の心情に助けられるものである。天才でさえ周到に準備する。実はむやみやたらに話すことははばかられるとゲーテでさえ言っている。文章には個人的な価値と普遍的な価値が混在する。そのため、誰しも不安になるだろう。自分がどのような話し手であるか、文章を修行する上で、確かめるべき事項である。そのための留意点は二つある。色々な学説があり様々な立場がある。自分の立場が社会のどの辺りにあるのかきちんと理解しておく必要がある。社会の一部となるべく論文を書いているのだから、社会で注目されている事項について、前提としての知識として知っておいたほうがよい。文章を書けばその評価を受けなければならない。一方で守っているだけではいけない。正直に所有権を主張しなければならない。マニアックなものは自分のものにコッソリしてしまうという選択肢はあるが逆に自分の権威につなげることが出来るのである。天才は、文章そのものが生命であるように語るが、書き手が手を加えないと文章は生きて来ない。一度手に入れた知識を一切放下しなければ、新しい論点が見えて来ない。先駆者は完成されたものとして論文を書いている。自分の述べたいこときちんと腰を据えてその上で、型破りにならなければならないのである。つまりは引用は自分の意見を飾り立てる小骨なのである。