経験と抽象の世界には連続性がある。抽象的な語ばかりを並べ立てたり、経験しか語られていなかったりと言うことを防がねばならない。欧米諸国では、幼いときから慣れ親しんだ言葉を使用して学問の世界に自然と入り込む。論文で使用されている語は、西洋ではよく日常で扱われるありふれた語なのである。それに対して、日本は元来日本語は抽象的な語彙が希薄であり、日本語に存在しなかった、西洋由来の意味を表す語を定義して使用する必要があった。それを日本語の中で高い地位を占められしまっている中国起源の漢語で訳語を作成した。そのため、学問を行うための言語が難解になっている。そのため、日本語では観念と言語の両面で使いにくい語ばかりになった。日本語は大人にとって、また、抽象的な言葉において不利な言語となったのである。それはあたかも、溝のようである。学生は自分だけがその溝を越えることができると優越に浸って抽象的な言語を振り回してるものが多い。日本語の抽象語は経験との結びつきが弱い語であるから経験と結び付けなければならない。経験は抽象観念の助けを借り自ら組織化することができ、自ら高度化することができる。他方で観念が経験のテストを経て豊かになり、成長する。戦後の日本人の教育は、高校教育で論文といっても遜色ない事象を教えているが、書くことをしないため生徒の内部に定着しないだろう。これを解決するために二つの問題を最低限クリアしなければならない。まずは図書館の完備、そして、日本語 を西洋諸国語のように日常の用語に定義を与えることである。