「あるがままに」書くこと、つまり「見た通り」「思った通り」に書くことは辞めろと作者は述べている。何故辞めなければならないか、いくつもの事柄が雑居している「見た通り」「思った通り」の空間的併存状態では、一挙且つ直接的であることが大事であったが、文章を書く上では不可能で不必要である。文字の強みは実物そのものと似ておらず抽象的である、絵に書けないものも表現することが出来ることだ。文を書く場合は写真や絵画と違い、作者は、一字一句順々に書き、また、享受者も一字一句追って読んでいく他ない。制作者も享受者も気の長い時間仮定をゆっくり歩いていかなければならない。
「あるがまま」という合言葉は「つくりもの」という観念と正面から衝突するが、「あるがまま」だけでは文章は書けない。「あるがまま」という言葉が自然尊重の態度で受け取られるのを心配している。進歩は人為の世界にのみ属する。規模としては極小で、利用方法は極めて手軽なものに日本人のエネルギーは用いられて来た。偉大なものを目にするとそれを人為的なものと思わず自然にまかせるのである。文化メッキ説に囚われていては文章は書けない。自然への甘えは結局空間へ依存状態への甘えだからである。大きさの順序は自然の世界に存在してはいけない。大きさという尺度によって制作者が勝手に順序をつけて書くことで、時間継起状態へと移し入れることが出来る。つまり空間併存状態が一早く経験の時間的過程へ翻訳されるからである。空間から時間へと物事に新たな秩序を与える人為的な行為である。そうすると、「が」では済まない。接続詞によって固く結びあわされねばならない。有意味な真実や現実は人間の働き似よって生まれる。人間の責任を含み始めて成り立つ。
尺度に困った時は、自分の視線の動きと言う時間的経過に当てはめて書く一種の無手勝法を使用出来る。この便利な点は、経験の時間的過程と書く時の時間的過程が一致することだ。しかし、ずるずると空間的秩序を時間的秩序に移すとは制作者も享受者も内容をよく理解出来なくなる。この状態は問題の踏み方がまだ足りないのだ。対立も微妙な差違も文章の中に出てくる。文章が立体的になるのである。また、序論はスルリと初め結論はプツンと終わるように本論とは別のものとして意識した方がよい。自分のスタイルを持つことはスランプにぶち当たる危険性を持っている。スタイルは自分の思想の縮図である。