『吉原ロミオとジュリエッタ』の世界
4月24日 曇天
昨日は、雨の稽古場で、初の荒々通し稽古を行いました。
当然まだ不完全。
しかし全貌、というか、まだおぼろげだけど『世界』が浮かび上がりました。
今日はその辺について書いていきたいと思います。
タイトル通り『吉原ロミオとジュリエッタ』の第一の舞台は吉原です。
一昨年の大河ドラマ『べらぼう』で親しみや知識を得た方も多いんじゃないかな。
あのドラマは『華やかな苦界』と江戸町人文化と幕府内部の問題が主なモチーフでした。
僕も大変楽しく見ることが出来ました。
ドラマ内では、吉原遊郭は各楼閣の主人による合議制で運営されるように描かれていました。
しかし、実際には幕府に任された権力者=支配者がいました。
幕府から汚れ仕事一切合切を任されていた浅草弾左衛門の存在です。
弾左衛門に関してはウィキペディアでたいていの事をしることが出来ます。
僕はもともと知りませんでした。
しかし、浅草で長い事芝居掛けをしていくうちに、少しづつ浅草の街、歴史に興味を持つようになったのです。その結果作家の塩見誠一郎を辿り着きます。
『弾左衛門物』と言っていいほどたくさんの著作と出会いました。
一時期、夢中になって読み漁ったことがあります。
面白いけど、被差別とかのディープな内容に、お芝居にするのは難しいとも感じました。
実際ある人物に相談すると「タブーに触れるのはやめた方がいい」とアドバイスも受けた。
『べらぼう』にも、きっとその辺の事情、あったかもしれませんね。
浅草で『浅草弾左衛門』を扱うのは無理なのか、とも思った。
しかし僕には政治的関心はありません。何かを糾弾する気持ちは勿論ない。
そこで、少しだけ変更を加えたキャラクターを生み出すことにしました。
まず男性から女性に置き換えました。
色の里のボスが女であれば、『人買い』にも柔らかさが滲みます。
女であることの必要性があるやもしれないし、哀しさも生じる気がしたのです。
そして女性が頭首の組織を考えました。
名作『吉原御免状』の作家隆慶一郎の短編小説『張りの吉原』の中に、『首代』という仕事=身分が出てくる。
吉原で生まれてしまった子供の運命は、そのまま吉原の住人となる事です。
女子なら女郎に、男子なら亡八者に。
この辺は『べらぼう』でもよく分かりました。
『首代』は屈強の男子が選抜されて生まれた吉原のいわば自警団です。
吉原内のもめごとと取り仕切りルールは喧嘩両成敗。
指一本なら指一本、腕一本なら腕一本、首一つなら首一つ。
喧嘩で失われたものを差し出して、とにかく相子に持ち込むのが『首代』の務めです。
犬神弾左衛門は『首代』たちのボス=おっかさんというフィクションにしたんです。
弾左衛門の娘=樹里絵が、次期の弾左衛門という虚構造が生まれました。
ここまでが吉原世界のあらましです。
もう一つの世界は赤穂浪士です。
主君の刃傷沙汰に巻き込まれ、仇討ちを果たす武士の物語ですね。
江戸時代を通して最大のスキャンダルにして慶事でもあります。
全員切腹であることからも主の宿敵を倒すため、
というより幕府への挑戦的要素も強かったんじゃないでしょうか。
天下泰平で、町人文化は花開いた。
その反面武士の存在意義が問われる時代が元禄期だったかもしれません。
武士道などという思想が生まれた理由も、武士が意味を持ちづらい時代になったからこそだと思います。新しいアイデンティティを生み出す必要に駆られたわけです。
実際戦国期の武士は平気で裏切る存在です。
下克上って訳なんですから忠義なんか知ったこっちゃない。
実力本位の時代です。
今でも日本人は戦国時代に強いあこがれ、ロマンを抱いています。
大河ドラマを見るまでもない事ですよね。
ましてやほんの数十年前に徳川の世になったばかりの元禄期の若者です。
戦国の世は憧れで間違いないでしょう。
赤穂浪士の一人に毛利小平太がいます。
実史の人物で『浪士最後の脱落者』と呼ばれています。
討ち入りの一月前まで大活躍が記されておりながら忽然と姿を消し、以降消息不明となります。
それゆえ映画、ドラマをにぎわす人気キャラクターになりました。
『吉原ロミオとジュリエッタ』のロメオ=毛利小平太には素晴らしい特徴があります。
興奮すると狼男さながらの変身を遂げる。
すると狼の目を持った男=『狼眼男(ロウメオ)』になるって寸法です。
ヤバいですよね。
三番目の世界が歌舞伎です。
とはいっても、市川團十郎を筆頭にした元禄期に花開いた立派な歌舞伎ではありません。
隅田川を挟んだ浅草の向こう側=向島に根城を持ついわばアングラ歌舞伎の設定です。
百の化け物の宴で、『百化宴』が彼らのチーム名です。
『吉原ロミオとジュリエッタ』では華やかさを呼び込み、語り部となる大きな存在です。
四番目の世界は隅田川の河原‥‥いわば川向こうの無法地帯です。
有象無象、埒外のそのまた向こうの埒外に落ちた者たちの棲家です。
禁じられた肉食が生業ですが、そこは鳥たちの楽園でもあります
ついに心中を覚悟した『ロメジュリ』の行きつく先がこの河原なのです。
多少のネタバレがあっても全然平気、物語の面白みはここから先にドーンと待ってます。
全八回の公演です。お見逃しなく。
今日も一時から稽古です。それじゃあ。
道行の道行・・・どこか彼方へ
4月23日 曇天、昼過ぎには雨
昨日は『吉原ロミオとジュリエッタ』の核となる道行について書きました。
僕が道行に夢中になったわけを知って欲しかったからです。
そして、昨日の深夜、いよいよ最終形態とも思えるピースが手に入ったようです。
その辺のいきさつ、ネタバレ覚悟で書くことにします。
昨日のブログで『吉原ロミオとジュリエッタ』はハッピーエンド、喜劇だと告知した。
芝居を始めたころ、正直暗めの作品もあった。
明治期、大正期、昭和前期の文学の名作をモチーフにしているため戦争は避けて通れないファクターで、勢い哀しい物語になりかねなかったのです。
「笑えるお芝居でないと協力しない」と妻に宣言されて、それでは困るので従うことにした。
それ以降、確かに変化が生まれた。
お芝居が終わると、お客様に笑顔が増えて、好意的な感想を聞くようになりました。
「ドガドガ見ると何故か元気になる」的なSNSの書き込みも増え大変うれしかったです。
その流れを汲んで『吉原ロミオとジュリエッタ』では、『ロメジュリ』は死にません。
それまでの生き方を捨てて、いわば第二の人生を進むのです。
シェークスピアの傑作は二人が死ぬ。だから悲しく美しい。
『ロメジュリ』は日本の心中物とは根本的に違う種類の物語です。
二人は間違って死んでしまう。勘違いして死んでしまうのです。
つまり本来死ぬ気じゃなかったわけです。
自殺はキリスト教では許されない行為ですから当然ですよね。
その点、日本の心中物は、はっきりと死を覚悟したうえでの道行が核になっています。
行き詰まり、八方ふさがりになった男女が、相対死を積極的に選択するわけです。
二人は死んで、自然に帰る・・・諦観というか無常観というか、極めて日本的な精神を表しているように感じます。
僕はこれをやってみたかったわけです。
しかし『吉原ロミオとジュリエッタ』では心中は、中止されます。
「喜劇だから、笑ってもらうんだから、これでいいんだ」と開き直る気持ちもありました。
しかし、そんな僕のいい加減に水を差す発言を、座長丸山正吾が訴えでた。
心中中止の場面に書き足しができないか、との要望があったのです。
非常に丁寧に、慎重に言葉を選んだ提言でしたが、正直あんまり納得出来なかった。
その後、エピローグまでのどんでん返しのネタバレをして、どうなるんだろうか、と感じたからです。
丸山は最近、各所から脚本の仕事も受けとるようになり、好評のようです。
僕と作業においても、しばしば改訂のアイデアをくれて、協力してくれます。
つまり、僕は台本理解能力や、より内容の充実を図るアイデアと言った点で丸山を評価しているわけです。
しかし、今回のケースではあんまり納得できずにいたんです。
ネタを先バラシすることは台本上多々ある事です。
その後のストーリー展開に道筋を通す効果=リーダーとしての役割があるからでしょう。
しかし、あんまりさらりと書いてしまっては、「はて、何言ってるんだろう」とお客さんに聞き逃され、意味をなさないことがあるようにも思います。
丸山に書き足しを求められて以来、そのことが頭から離れなくなっていました。
昨日のブログに道行について書いて、自分の頭の中を整理している気分もありました。
覚悟した死、を中断し、生きる道を選ぶ。
つまり、二人は相反する二重の決断をするわけですね。
丸山の疑問の原因はこのあたりにあるのかな、と考えが及びました。
死を決心したロミオを丸山は演じているのです。
思い切り決意し、その上、その決意を捨てて、生きてしまう。
調子がいいと言えば調子がいい話です。御都合のようにも思えるだろう。
多分演じる側としての疑問が残っているんじゃなかろうか?・・・と僕は思い立ちました。
そりゃそうだよね。
さんざん心中を熱演しながら、あっさりと決意を翻すんじゃあ、丸山もやってけないのかな。
そんなことを、僕は昨日夜10時ごろの一人飲みの中、考えてました。
大きな心変わりの瞬間・・・その刹那にロミオから零れ落ちる思いをセリフが必要なんじゃないか、と考えが至りました。
丸山に「こんなのでどうだ」と電話しました。
「いいと思います。それでお願いします」と返事があった。
僕の家の食卓にはメモの紙切れが常備されてます。
通常は妻と買い物や夕食の連絡をするためのものです。
しかし、時折僕は走り書きに利用したりもします。
妻が寝る9時以降は、基本一人飲みです。
だから、芝居の事や、台本に関してが考え事もメインになります。
ふと思いついた歌詞のフレーズや、翌日の稽古で、伝える注意点を要約したりするのです。
で、昨日は丸山の本編最後の最後のセリフを書いときました。
それが今、ナイキのジャンパーのポケットにあります。
そいつを元手に、これから最後の人絞りに向かい合うわけです。
道行の行きつく先を、もう一つ深くできるような気分になってます。
そんなわけで、今日のブログは僕らの「道行の道行」についてお知らせしました。
今日も一時から稽古です。それじゃあ。
道行って、素晴らしい。
4月22日 快晴なれど風強し
昨日も、もちろん稽古。
一昨日は23人登場のモブシーンを稽古しました。
昨日の稽古のメインディッシュは一転、たった二人が織りなす愛の逃避行。
ズバリ、道行の下りです。
道行・・・コトバンクで調べるといろいろな意味があった。
6番目に出てきたのがこれ。
⑥ 浄瑠璃・歌舞伎などで、舞踊で表現される相愛の男女の駆け落ち、情死行などの場面。転じて一般に、男女が連れ立って歩くこと。
いいですねえ。日本人の大好物って感がある。
ちなみにイエスキリストが十字架背負って歩かされたのも、道行らしい。
死への旅だもんな。
日本人だけじゃなく、死は人類にとって圧倒的な魅力を放つシンボルなのかな。
ドガドガで『ロメジュリ』やってやろうって思いったった十数年前を思い出してみる。
当時ドガドガは基本贋作シリーズでやってた。今でもそうかな・・・
『ロメジュリ』は誰でも知っていて、その上人気もある。
シェークスピアの悲劇は重すぎて、見ていて辛くなるものも多い。
その点『ロメジュリ』は青春物だから、胸キュン出来るんだろうな。
それをパクればお客さん来てくれるかも・・・って下心がなかったとは言えません。
しかしそういった下世話な気持ちとは別に、僕には『道行きに挑戦してみたい』って
ある種純粋な気持ちがあった。
近松門左衛門の『曽根崎心中』に『心中天網島』とかって、ぐっとくるもんなぁ。
恋する者たちが、世間の壁に行き詰まり、とうとう死を選ぶ。
そこまでの道をひたすら逃げて、最後にたどり着いた場所までの行程・・・道行。
僕はこれがやってみたかったんです。
初演の年の2月は大変な大雪続きだった。
稽古場までの移動も大変だった。
その上僕が第一号になり稽古場でインフルエンザをはやらせてしまった。
高熱出しちゃ夜汗かいて、翌日『もう風邪治ったぞ』っと稽古場に行くこと三日。
とうとう病院行ってインフルだと知った。
「もうほとんど治ってますけど感染させちゃう危険があるのであと三日、家にいるように」
そんな事を医者に言われ絶望していた事を思い出します。
で、三日後に稽古場に行くと結構厳しい現実が待っていた。
僕がいない稽古場で自主稽古が続けられていて、問題が生まれていたのだ。
『ロメジュリ』担当、当の二人と、二人の稽古を見守るベテラン俳優陣からいきなり要望がありました。「長すぎるから、切って下さい」と言われてしまったのだ。
「持たない・・・持ちそうにない」と結論された。
確かに長い。20分間、二人きりなんだもんな。
でも、この要望に対して病み上がりの僕の答えは確かこんなだった。
「道行は長ければ長いほどいいんだけどな」
「やってみて、それでも駄目なら切るから、とりあえずやってみよう」
そんな風にして雪に囲まれた稽古場で夕方までの稽古が始まりました。
現在座長の丸山正吾と当時のヒロイン中田由紀が稽古場いっぱいに、語り飛ばし、走り回った。
東洋館劇場の本舞台から上手舞台、その上劇場を巡る通路がアクトスペースでした。
ミザンスがついて、二人が僕らの『ロメジュリ』やってくれた。
カットを提案した俳優も稽古終了時には「凄かったですね」と褒めてくれました。
生きさつは知らないけど、きっと若い二人に頼まれて、提訴代表者になったんじゃないかな。
「長い道行書いて良かった」とつくづく思った。
今回の稽古でもその思いは変わりません。
『吉原ロミオとジュリエッタ』には大どんでん返しもあって、喜劇、ハッピーエンドです。
しかし、道行は道行。大いに胸が締め付けられます。
乞うご期待。それじゃあ。