そして中日です。
七月六日
一人芝居『駆け込み訴え』昨日は初日、そして本日中日です。
昨日は酷暑の中、桟敷用座布団、最後の2枚を四時に運び入れ、最終最終チェックを終え、御徒町で友人と飲みました。
6時40分会場到着。
二十五名を予定していたお客様は二十八名に増え、我が家の座布団大いに役立って、感激です。
初日の中瀬古の出来は、まあ合格かな。
やっぱり昨日よりも、緊張が伝わってきました。
本人もそれは気がついていたようです。
しかし、お客様には驚嘆を味わっていただけた模様です。
本日から、後たった二回、上り詰めていって欲しいものです。
一人芝居についての考察です。
お芝居では、ある役者が担当する部分を、『出番』と言います。
出番が少ない、あるいは多すぎる、とか、不満も生まれる。
本書く時も、これは大いに気にかかる問題、というか課題になる。
本来、観客が面白ければいいんだろうけど、出演者にも気遣いを必要とするからだ。
『駆け込み訴え』は小説であって、戯曲じゃない。
主人公、ユダの告白、独白、一人語りだ。
太宰治は、当然『出番』のことなんか気にする必要はありません。
ユダが語るもう一人の主人公『イエス』そして彼に従う弟子たち、
そして決して言葉を発する訳じゃ無いけど大きな存在感を持つマグダラのマリアが登場する。
今回はそれら全てを中瀬古健が演じるのですが、お客様にとってこれはどうなんだろう。
本来共演者がいた方が見やすいし、役者同士のアンサンブル、化学反応のようなものも楽しめる。
料理だって、おかずはいろいろあった方が楽しいし、ワクワク心も弾む。
小説通りに演じるなら70分一幕・一場で、同じ味付けで丸呑みするのはなかなか体力がいることだろう。
仮に、美味しかったとしても、やっぱり飽きちゃう、ってことも十分考えられる。
その点の心配は大いに感じたから、なんとか目先をかけていこうと思いました。
これまさに、『おもてなし』の精神です。
しかし、物語も半分を過ぎて、いよいよクライマックスを迎えると違う心境も生まれてくる気がする。
長距離を走り切る時に生じる快感=ランニングハイ。
これと似たメカニズムで=脳内幸福物質的喜びが生じてくるような感じです。
みんなで共有する『出番』といった優しいシステムじゃなく、もっと我儘で、それこそ独善的な時間と空間が一人芝居かも知れません。
ある意味超人的な行為に、付き従い、一緒にゴールする喜びを鑑賞者は味わう。
その上で、演者を讃える…そんな公演が理想なんだろう。
その高みが、少しでも、もっともっと高くなる事を期待します。
一回目のゲネプロ終了後、僕は中瀬古にこんな感想を伝えた。
「今となったらもう必要なかったかも知れないけど、『読む』は間違ってなかったと思う」
すると健ちゃんは、読む必要性を大いに説いた。
「ですから、なくちゃダメです」と言われた時僕はこんな答えを返した。
「足のたたない深い海をずっと泳いでいるのは、辛いもんだよな。
時々足が立つ岩があちこちに隠れていたら気分は全く違うかもね」
マグダラのマリアの場面での『読み』を考えつき、その方法を中瀬古に伝えた。
いざ実践すると、演者の顔を見ることができなくなった。
『読みながら演じる』という方法もなくはなかったが
これだとどうしても『カンニング』=盗み見ている行為に映ってします。
だから、演者の表情を諦めて、ひたすら読む、読み倒す…この方法を選ぶことになった。
自分の心の中に潜んでいる意識を見つけて、オートマチックに声にする。
古代遺跡から、未知の文書を探し出す。
洞窟に迷い込んだようなもんですね。
昨日はドガドガプラス由来のお客様も多かった。
ドガ女一期生の浦川奈津子に松山クミコも駆けつけてくれ、終演後も大いに盛り上がりました。
二人とも、もちろん中瀬古健を絶賛。
改めて、健ちゃんのポテンシャルに惚れ直していました。
僕も、クミコと奈津子から『読み』について大いに褒めて貰った。
稽古の初めから、僕の最大の関心事は『太宰治』という存在でした。
中瀬古の発案で、挑む、というか向かい合う対象になった次第です。
ですから責任のようなものは感じる必要もないでしょうし、僕のような存在がそんな事を考えるのもおこがましいです。
ですが
「太宰が見たらどう思うんだろう」
「みっともない真似はできないな」
「出来たら喜んで貰いたい」
そんな感情はずっと持っていた。
それからパレスチナの現状。
民俗をめぐる歴史。
宗教の意味。
僅かながらの読書から覚えた知識ゆえに生じた、意気込み…というよりプレッシャーも感じていた。
初めての稽古が始まる前、僕は小一時間、そんな心境を語って中瀬古と共通の認識を持とうとしました。
その結果が今回のお芝居になったんだと思うといわゆる一つの『感無量』かな。
お暑い中ですが、湯島に夕涼みがてらおいで下さい。
本日もお待ちしております。