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前回、史跡「富士山」の構成史跡として北口本宮浅間神社を紹介しました。この神社は古くから有名な武将たちの庇護が篤いため、古い建物がいっぱい残されていました。今回はその、重要文化財に指定された建物たちを紹介します。
以前から本殿、東宮本殿、西宮本殿は重要文化財でした。さらに平成29年、境内にあるその他の主要な建物が一度に重要文化財に指定され、全部で11棟の建物が重要文化財となりました。
いずれも江戸時代、冨士講が一番盛んだったといわれた時期に地元で最大の講を束ねていた村上光清らが出資して修理・再建したのだそうで、どれだけ講という組織がお金を集められたのか、求心力とでもいうのでしょうか、そのパワーのすごさを見せつけられました。一つずつ見ていきましょう。
まずは以前から指定されていた本殿、東宮本殿、西宮本殿です。
本殿は一間社入母屋造、安土桃山時代の特徴である、金々キラキラの豪華絢爛な建物です。金箔を貼り、柱や高欄は黒漆、構造材には朱をふんだんに使って彫刻も中国に題材を得た動物を彫り出し、群青や緑青で彩色しています。
何といっても正面の扉は下地を金箔で貼り、松と竹に鶴が飛んでくる様子を描いていてとにかく派手、豪華極まっています。
近くで見たかったのですが如何せん神前ですから失礼がないように、遠く手前の拝殿から眺めるだけにしました。祈祷をお願いすると近くまで行けるようです。
外観の写真を見るとお分かりいただけますが、実際には側面の壁にも金地に何か描かれているのです。保護のためのシートがあったり、透塀があったりして見えづらく、写真には撮れませんでした。近くで見てみたいですね。
続いては西宮本殿。こちらは本殿の裏手・西側に建てられていて、すぐ隣に吉田口登山道の入口があります。
旧本殿で、東宮本殿に替わって建てられました。文禄3(1594)年建立ですから、室町末期~安土桃山期の建物ということになります。建立者は地元・谷村の城主だった浅野氏重です。現本殿の建立に伴って現在地へ移築されました。
一間社流造、檜皮葺で、柱や壁は朱や黒の漆でてっかてかに塗られていました。極彩色の彫刻でひときわ目を引きます。最近、修理が終わったばかりだそうで、眩しいくらいに輝いて見えます。
向拝の柱に金の飾り金具がありますが、卍と下り藤の家紋のようなものが飾り付けられています。これが村上光清の紋なんだそうで、冨士講による修理時に付けられたもののようです。
そして本殿裏手・東側にあるのが東宮本殿。
やはり一間社流造、檜皮葺の建物です。武田信玄が川中島合戦の戦勝を祈願して建立した、永禄4(1561)年の建物とのこと。
西宮本殿より前の本殿だった建物です。やはり、地元で崇敬されている殿さまの建てた建物ですから大事にされて、建て替えの際にも残されたのでしょう。
コチラも近年、修理が行われて往年の輝きが戻りました。室町期の神社建築なので、貴重です。
卍の紋が目を引きますね。
特に東宮本殿は明治時代、すでに特別保護建造物に指定されていました。その当時から重要さ、貴重さが認識されていたんですね。
引き続いて、平成29年に重要文化財となった建物も見てみましょう。これらの建物はすべて、江戸時代の享保19(1734)年から宝暦3(1753)年に行われた、村上光清らによる大修復・造営時に建立されました。
まずは随神門。
千社札がいっぱいで、ちょっと汚らしく残念な感じです。
でも、竜や獅子などの彫刻がカッコイイ、江戸期らしい建物です。木鼻を獅子の彫刻にするところなんか、江戸時代の建物です。
そして手水舎。
屋根は木造なのに、それを支える柱は石製なのがおもしろいです。
木鼻という木鼻がすべて龍の頭なのがスゴイです(一部、獅子の頭もありますが)。
手水舎だから、水を司る龍がモチーフになっているのでしょう。
水盤は富士山の溶岩を削り出して作っているそうです。
境内の真ん中にある神楽殿は、手水舎に比べると質素で、落ち着いた感じがあります。
蟇股の彫刻をよーく見ると、十二支が彫られています。
そして神楽殿の後、本殿の前にあるのは巨大な拝殿です。
正面向拝の唐破風には、にらみ合った二頭の獅子と、うねるような竜が彫られていました。
内部はこんな感じ↓
大きな空間にぶら下がった、2基の巨大な灯篭が圧巻です。
何だかいろいろな奉納物も大きなものが掲げられていて、圧倒されます。
拝殿の隣には附指定となっている燈籠があります。他の神社建築と一緒に村上光清の富士講が奉納したものだそうです。
基部が石造り、龕部は木造という、あまり見たことがない形式です。小さいながら、神社建築の様式を踏襲しているところが凝ってますね。
拝殿手前右手に見えているのは境内社・諏訪神社の拝殿です。
北口本宮浅間神社の建物に比べて装飾も少なく、質素な建物です。
しかしこの諏訪神社は、もともとこの北口本宮浅間神社が建つ上吉田地区において中世以前は拠点となる神社だったとされています。
今も、富士山の山じまいを象徴する祭り「吉田の火祭り」は、この神社の祭礼なんだそうです。
北口本宮浅間神社より力があった時代があったんですね。
拝殿の奥には諏訪神社本殿が見えます。本殿は昭和の初めに火災で焼失・再建されていて、残念ながら重要文化財ではありません。
拝殿の控えの間には、吉田の火祭りで使われる「富士山の神輿」が展示されていました。
社務所も重要文化財です。
改造があって面影が薄いですが、正面入り口の向拝や間取り、大半の建築材などは当時からのものだそうです。
現在も使用されているので内部見学はできませんが、地元に残る御師の住宅などと共通点が見られるとのことです。
この時は御師の住宅がどのようなものかわからなかったので、何とも言えませんでしたが。
(この後、世界遺産にも登録された「外川家住宅」でじっくりと御師の住宅を見せていただきました。)
そして、本殿の裏には恵比寿社があります。
本殿裏で狭い場所にあるため、建物全体をカメラに収めることができませんでした。
切妻造り、妻入りで妻側が唐破風になっている(向唐破風造りというらしい)ので神社建築っぽくありません。
恵比寿社の両側から伸びて本殿を囲んでいる透塀も重要文化財となっています。
最後に訪ねたのが、大鳥居の手前左側にある福地八幡社です。参道からお参りすれば一番最初に当たる建物のはずなんですけど、最後になってしまいました。
もともとは古吉田と呼ばれた地域の氏神様だった神社だったそうですが、村上光清らの講が旧地の神社の古材を一部用いてここへ再建したものとのこと。もとの建築が貞享元(1684)年に建てられ、この地に再建されたのが元文5(1740)年となるので、両時期の建築様式が見られるそうです。
一間社流造、銅板葺。
元文期の再建には東宮本殿が参考にされたらしく、規模や構造が似ているそうです。向拝の彫刻はこの時期の様式とみられ、身舎頭貫の木鼻彫刻は貞享期の様式が見られるそうです。